唐史演義渠魁を獲り東突厥を掃平す/雄師を統べ吐谷渾に深入す(0017 第一十六回 獲渠魁掃平東突厥 統雄師深入吐谷渾)
蕭后・楊政道の入朝と太宗の惑溺
- 李靖の勝報を受け、太宗は蕭皇后と楊政道を長安へ召した。楊政道は幼くおどおどしていたが、蕭后は堂々と拝礼し「臣妾蕭氏、陛下万歳」と挨拶した。既に四十過ぎながら艶やかな容色を保つ蕭后に太宗は心惹かれ、宅を賜って住まわせた。
- 太宗はほどなく蕭后を宮中に召し、隋室滅亡の経緯や突厥での境遇を聞いた。蕭后は「死後は煬帝と江都で合葬してほしい」と涙ながらに願い、太宗は憐れんで寵愛するようになり、両者は情を通じるに至った。
頡利可汗の敗走と捕縛
- 李靖に大破された頡利可汗は鉄山に逃げ込み、執失思力を遣わして降伏を申し出た。太宗は唐儉らを慰撫の使者として派遣する一方、李靖に迎撃を命じた。李靖は「詔使が赴いた隙を突けば頡利を必ず捕らえられる」と判断し、副将張公謹の懸念を退けて夜襲を決行。
- 頡利は油断していたところを急襲され、単騎で逃走。唐儉らは危うく脱出した。唐軍は突厥の陣営を制圧し、頡利の可敦(四度目の夫を持つ義成公主)を斬り、頡利の子畳羅支を捕らえて長安へ送った。
- 頡利は蘇尼失を頼って吐谷渾へ逃れようとしたが、李道宗・張宝相の追討を受けた蘇尼失に捕らえられ、唐に引き渡された。太宗は順天楼で頡利の五つの大罪(暴虐・背盟・侵略・略奪・帰順の遅延)を数え上げて詰問しつつ、死罪は免じて優遇した。上皇(高祖)はこれを聞いて「漢高祖が果たせなかった雪辱を我が子が成し遂げた」と大いに喜び、凌煙閣で盛大な祝宴を催した。
東突厥降人の処遇を巡る論争
- 東突厥滅亡後、十万余の降人の処遇を巡り群臣で議論が起きた。顔師古・李百薬は河北や定襄に酋長を立てて統治する案を、温彦博は降人を塞下に居住させ中国の藩屏とする案を提示。魏徴は「戎狄は信なく、西晋の教訓(諸胡を内地に雑居させて禍を招いた例)を繰り返すべきでない」と強く反対したが、温彦博の「王者に外なし、教化すれば我が民となる」との弁に太宗は同意した。
- 太宗は突厥の地を東西南北に区分し、突利の故地に四州、頡利の故地に六州を置き、定襄・雲中の両都督府を設置。突利は右衛大将軍北平郡王兼順州都督、蘇尼失は懐徳郡王、阿史那思摩は右武侯大将軍・懐化郡王に封じられ、多数の番将が官職を得て長安に移り住んだ。
- 頡利は京師で鬱々とし憔悴、太宗が虢州刺史への転出を勧めても固辞した。貞観七年冬、上皇主催の宴で頡利は蛮夷の舞を披露させられ、屈辱に耐えかねて病に伏し間もなく没した。太宗は突厥の旧俗に従い火葬を許し、帰義王を追贈した。子の畳羅支は孝行者として厚遇された。蘇尼失も頡利の死を悲しんで没し、突利も順州で暴死し、東突厥の一件はここに落着した。
天可汗の推戴と貞観の善政
- 四夷の君長は太宗を「天可汗」と推戴し、太宗は璽書に天可汗の号を用いるようになった。高昌・林邑・新羅などが相次いで朝貢・内附した。
- 群臣は封禅を勧めたが、魏徴は「戸口未回復、遠夷の随行は国の弱さを露呈する」と諫め、太宗は思いとどまった。太宗はさらに鞭打刑(背への鞭打ち)を廃し、奴僕による主人告発を禁じ、県令の選任慎重化などの善政を進めた。
- 蝗害の年には自ら蝗を食して民に代わる祈りを捧げ、死刑囚三百九十人を一時帰宅させ、期限通りに全員が戻ったため恩赦した(後世これを「情に流された措置」と批判する声もある)。
- 一方で、忠直な盧祖尚を出仕拒否を理由に処刑し、無実の疑いが濃かった大理丞張蘊古を讒言により処刑するなど、行き過ぎた事例もあった。
吐谷渾遠征
- 貞観八年、吐谷渾が涼州に侵攻。太宗は李靖を総大将に、侯君集・李道宗・李大亮・李道彦・高甑生を各道総管として五道から進軍させた。吐谷渾の伏允可汗は権臣天柱王に唆されて挑発を重ねていた。
- 唐軍は野草を焼かれる焦土戦術に苦しめられたが、侯君集の主戦論により進軍続行を決定。北道の李靖・李大亮軍は戍兵を破って進撃、南道の侯君集・李道宗軍は酷暑の中を氷雪の高地まで踏破し、伏允の本営を急襲。
- 唐軍の薛萬均兄弟が天柱王の伏兵に包囲され苦戦したが、契苾何力の救援で脱出。伏允は突倫川へ逃れ、契苾何力が夜襲でこれに迫った。
評語
唐の名将は李靖を第一とする。東突厥の頡利を捕らえ、吐谷渾の伏允を敗死させた功績は輝かしく、諸将の補佐はあったにせよ統帥としての功績は疑いない。俗説には李靖に異能があったとするが正史に見えないため本書では採らない。蕭后の一件は太宗の過ちを暴くために敢えて記した。内治の充実と、盧祖尚・張蘊古の誤殺という功罪も併せて記すことで、善悪を公平に伝える意図である。