唐史演義長孫后、臨終に主闕を箴む/武媚娘、召に奉じ皇恩に沐す(0018 第一十七回 長孫后臨終箴主闕 武媚娘奉召沐皇恩)

吐谷渾平定と伏允の最期

  • 伏允可汗は唐軍の再攻を受けて敗走。契苾何力の追撃で番衆は総崩れとなり、伏允の妻子や家畜は捕獲された。李靖の本隊も合流したが、高甑生だけ遅参し叱責を受けた。
  • 高甑生は恨みを抱いて追撃の妨害を図る一方、吐谷渾は伏允が自ら命を絶ったことを理由に、その子慕容順を立てて降伏を申し出た。太宗は慕容順を西平郡王に封じ、李大亮に守備させて諸将を帰朝させた。
  • 帰朝後、高甑生は李靖を謀反と誣告したが証拠なく、逆に高甑生が処罰された。

慕容順・諾曷缽と唐の後見

  • 慕容順は国人に殺され、幼い子の諾曷缽が跡を継ぐも大臣の権力争いで国内混乱。侯君集・李大亮が出兵して乱の首謀者を誅し、諾曷缽を立てて安定させた。
  • 諾曷缽は入朝して唐の暦を奉じ、貞観十三年には宗女弘化公主を娶り、河源郡王に封ぜられた。

高祖の崩御と献陵の造営

  • 李靖の遠征中、太上皇(高祖)が崩御(享年七十一)。太宗は服喪のため皇太子承乾に政務を任せた。
  • 陵墓の規模を巡り、虞世南は倹約を説き、房玄齢らの議論を経て漢の原陵に倣い高さ六丈と定められた。

長孫皇后の薨去

  • 高祖の埋葬後まもなく長孫皇后が病に倒れる。太子が大赦や祈祷を願い出ようとしたが、皇后は「私事のために国政を乱してはならない」と諫めて退けた。
  • 皇后は臨終に際し、房玄齢の重用継続、外戚(自分の一族)を要職に就けないこと、薄葬(棺槨を用いず質素に)を太宗に遺言した。三十六歳で崩御。

皇后の徳行の逸話

  • 兄の長孫無忌を要職に就けることに反対し、辞退させた。
  • 太子の乳母が東宮の調度増加を願い出た際、名分を優先すべきと退けた。
  • 娘の長楽公主の嫁資を長公主の倍に定めようとした際、魏徴が礼制に反すると諫言。皇后はこれを喜び、魏徴を励ました。
  • 太宗が「田舎者(魏徴)を殺してやる」と怒った際、皇后は朝服に着替えて「主君が賢明だからこそ直言する臣がいるのです」と祝賀し、太宗の怒りを解いた。
  • 生前に女性の書『女則』を著しており、崩御後に太宗がこれを読んで嘆じ、文徳皇后と諡し昭陵に葬った。太宗が昭陵を望む高楼を築いた際、魏徴に「献陵(父の陵)ばかりが見える」と諭され、楼を取り壊した。

皇子たちの処遇と魏徴の上疏

  • 太宗は三子(承乾・魏王泰・晋王治)を鍾愛。泰は文人を集めて文学館を開くなど太宗の寵を得た(後の廃立の伏線)。
  • 諸皇子を各州の都督・刺史に任じたが、呉王恪らの不行状が問題となり、褚遂良の諫言で在京にとどめる方針に転換。
  • 貞観十一年、大雨で洛水が氾濫し洛陽で多数の死者。魏徴は「十思疏」を奉り、君主が慎むべき十の心得(欲を抑える・驕らない・諫言を容れる等)を説いた。
  • 翌年の大旱に際し、魏徴は「十漸疏」を上奏。太宗の治世が貞観初年に比べて奢侈・好戦・人材登用の恣意・諫言軽視などで初心を失いつつあると十項目にわたり指摘した。太宗はこれを褒めて受け入れた。

武則天の入宮

  • 太宗は諫言を容れつつも好色は改まらず、弟の妻や隋の蕭后まで後宮に入れていた。史家はこの点を魏徴の諫言の欠落として批判する。
  • 武氏(後の則天武后)は并州文水の人で、父は高祖の旧知・武士彟。母楊氏との間に生まれた次女で、十四歳で美貌の評判が宮中に伝わり、太宗に召された。
  • 入宮した武氏は物怖じせず堂々と応対し、太宗の寵愛を受けて「媚娘」の名を賜り才人に冊立された。太宗は他の年配の宮女や高祖の旧妃を退け、蕭后への寵も薄れるほど武媚娘に傾倒した。
  • (詩:唐室の禍根がこの寵愛から始まったことを暗示する内容)

評語

  • 長孫皇后の崩御は詳しく描き、その賢徳と早世を惜しむ。武媚娘の入宮も省略せず、太宗が老いてなお好色に耽ったことを暴く目的である。
  • 「十思」「十漸」の両疏を全文に近い形で載せたのは、名臣魏徴を称えつつも、その諫言に限界があったことを暗に指摘するため。皇后の遺言を知りながら武氏の入宮を止めず、昭陵ではなく献陵を勧めて父子の情のみを説いたのは、夫婦の情(皇后への恩)を軽視した表れであり、太宗のみならず魏徴にとっても悔やまれる点である。