唐史演義武を偃せ文を修め君臣治を論ず/和を戦に易え将帥鑣を揚ぐ(0016 第一十五回 偃武修文君臣論治 易和為戰將帥揚鑣)
李藝・王君廓の謀反と誅殺
- 燕王李藝は竇建德・劉黒闥討伐の功で左翊衛大将軍となったが驕り高ぶり、秦王府の旧臣を侮って軋轢を生んだ。高祖は彼を涇州に出鎮させ、太宗即位後は開府儀同三司に進めたが、藝は秦府系の人々への負い目から不安を募らせ、閲武を口実に兵を集め、偽の密詔を掲げて豳州を占拠しようとした。
- 豳州刺史趙慈皓は表面上同調しつつ密かに朝廷へ急報、統軍楊岌と謀って藝を討とうとしたが発覚し、慈皓は投獄された。太宗は長孫無忌・尉遲敬德に討伐を命じ、楊岌が先に城内で挙兵して藝を撃破。藝は妻子を捨てて突厥へ逃げる途中、従者に殺され首級を献じられた。
- 藝の妻孟氏は、女巫に「大貴の相あり」「王に紅光あり」などと吹き込まれて謀反を焚きつけていたことが判明し、一族もろとも処刑された。
- 幽州都督王君廓も長史李玄道への猜疑から驛吏を殺して突厥へ逃亡を図り、途中で殺害された。太宗は遺骸を厚く葬らせたが、後に叛臣として封邑を除かれ庶人に落とされた。
太宗の人材登用と封德彝の奸計
- 太宗は諫官を常に議事に同席させ、五品以上の官に宿直させて民情を問うなど、諫言を積極的に取り入れた。群臣に人材推挙を命じた際、封德彝だけが一人も挙げず、太宗に「奇才がいないため」と弁明したが、太宗は「人君は人を見出す努力を怠ってはならぬ」と叱責した。
- 封德彝は表面は蕭瑀と親しみながら、蕭瑀の議事が決まった後にことさら難癖をつけて太宗の判断を覆させる奸智を用いていた。房玄齢・杜如晦・長孫無忌・尉遲敬德ら功臣にも取り入り、蕭瑀は孤立して弾劾に及ぶも逆に不敬罪で免官された。徳彝は僕射となったがほどなく病没し、後に隠太子・海陵剌王への加担が発覚して官爵を追削、諡も「繆」と改められた。
魏徴の重用と忠臣・良臣の議論
- 太宗は魏徴を近侍させ軍国の重事を諮問した。魏徴が親戚を庇ったとの讒言があったが温彦博の調査で事実無根と判明。徴は「君臣が互いに疑心を持てば国は危うい」と直言し、太宗もこれを認めた。
- 徴は「忠臣ではなく良臣にしてほしい」と願い、稷契皋陶のように君臣が心を同じくして栄えるのが良臣、龍逢比干のように諫めて身を滅ぼすのが忠臣、と説き、太宗は絹五百匹を賜った。
- 西域の商人が真珠を守るため自らの身を割いて隠したという逸話を巡り、太宗は「官吏の収賄や君主の好利も同じ愚かさだ」と述べ、魏徴も孔子の言を引いて同調した。
- 太宗が「明君と暗君の違い」を問うと、徴は「兼聴すれば明、偏聴すれば暗」と答え、堯舜が広く民の声を聞いた例、秦二世・梁武帝・隋煬帝が寵臣に惑わされて滅んだ例を挙げた。また「北斉後主と周天元、いずれが劣るか」との問いには、後主は軟弱で政治が乱れ、天元は驕暴で自ら威福を振るった点でより劣ると答えた。
- 徴は容貌こそ凡庸だが胆力があり、太宗が愛玩の鷂を懐に隠した際もあえて長話をして鷂を死なせたほどの直諫ぶりで、南山行幸を控えさせたこともあった。
賢臣の登用と王珪の諫言
- 太宗は戴冑を大理少卿、孫伏伽を諫議大夫、李乾祐を侍御史、祖孝孫に雅楽制定を任せ、王珪を侍中に登用した。
- 王珪は謁見の際、太宗が伴っていた美人が誅殺された廬江王瑗の侍姫と知り、「陛下は廬江王を是とするか非とするか」と問い、人妻を奪って殺した廬江王を非としながら同じ過ちを繰り返す矛盾を突いた。太宗は納得し侍姫を実家へ帰した。
- 祖孝孫が宮女に楽を教えて叱責された際も、王珪は温彦博と共に諫めたが太宗に怒られた。彦博は謝ったが王珪だけは拝謝せず「忠言をもって忠と申し上げたのに私心と見るのか」と言い張り、翌日太宗は房玄齢に「諫言を控えるな」と自省を語った。
- 房玄齢・杜如晦を僕射、魏徴を秘書監として朝政に参画させ、玄齢は謀に長け如晦は決断に長けるという名コンビで国政を支えた。貞観元年から四年にかけ、死刑は年二十九人に留まり、米価は三銭、旅人も食糧を持たず道端で賄えるほど天下泰平となった。
十道の制定
- 太宗は官吏の冗員整理のため中国を十道に分けた(関内・河南・河東・河北・山南・隴右・淮南・江南・剣南・嶺南の各道に多数の州を配分)。
梁師都の平定
- 朔方に拠る梁師都のみ未平定であったため、柴紹・薛萬均兄弟に討伐を命じた。夏州長史劉旻・司馬劉蘭成が反間策で師都配下を投降させ、師都は追い詰められて突厥に救援を求めたが、劉蘭成の夜襲と柴紹軍の反撃で突厥軍も敗走。孤立無援となった師都はついに従弟の洛仁に刺殺され、城は降伏した。師都は隋末群雄中最も長く十二年存続したが、これにより中国は統一された。
- 柴紹は左衛大将軍に進み、既に世を去っていた妻・平陽公主は昭諡された。
突厥の分裂と太宗の対応
- 突厥は東西に分かれ、麾下の薛延陀・回紇など十五部族が離反しつつあった。鴻臚卿鄭元璹は「突厥は二三年以内に滅ぶ」と報告したが、太宗は「盟約を破って乗じるのは不義」として自重した。
- 頡利可汗が突利可汗に出兵を強いて敗退させ、突利を鞭打って幽閉したため、突利は離反して唐に入朝を願い出た。太宗は「突厥の衰微は喜ばしいが、己が道を失えば同じ末路を辿る」と群臣を戒めた。
- 頡利が突利を攻めると、突利は唐に救援を求めた。杜如晦は「戎狄に信義なし、機を逃すな」と進言。太宗はなお慎重だったが、薛延陀の酋長夷男を真珠毘伽可汗に冊封して頡利討伐に誘導した。頡利は形勢不利を悟り和親を願い出たが、太宗は過去の背信を挙げて拒絶した。
李靖の北伐と頡利の敗走
- 貞観三年十一月、太宗は李靖を行軍総管として北征させ、張公謹を副将、李世勣・薛萬徹らを諸道総管とし、総勢十余万の大軍を発した。突利は先に入朝し、太宗は「太上皇が突厥に臣礼を取った屈辱を雪げる」と喜んだ。
- 顔師古の建言で朝貢する諸蛮酋の図(王会図)が作られ、貞観三年冬の戸口調査では帰順・帰国者ら計百二十余万口を得た。
- 貞観四年、李靖が驍騎三千で馬邑から定襄を急襲し、頡利は敗走。番目康蘇密が投降し、隋の蕭皇后と楊政道の身柄が唐軍の手に落ちた。
評語
太宗は即位当初、勵精図治し君臣が互いを戒め合う姿が見えるが、それでも封徳彝のような佞臣に一時惑わされたことは免れない。太宗は内治に努めつつ、突厥に対しては国内が定まらぬうちは和睦して力を蓄え、定まった後は罪を鳴らして討ち、夷男・突利を用いて夷を以て夷を制する手腕で雪辱を果たした。その馭外の巧みさは称賛に値する。