唐史演義第一十四回 弟婦を納れ東宮倫を瀆す/胡虜と盟い便橋にて約を申ぶ (納弟婦東宮瀆倫 盟胡虜便橋申約)
魏徴の山東宣撫
- 魏徴は山東宣撫の途上、赦免済みのはずの東宮・斉王旧臣が護送されているのを見て独断で釈放し、世民に報告。世民はこれを評価し、東宮・斉王・庐江王関係者への告発を禁じ、馮翊・馮立・薛万徹らも不問に付した。
斉王妃・楊氏をめぐる経緯
- 元吉の死後、その妃・楊氏は世民の妃・長孫氏と親しかった。楊氏はもともと元吉の世民暗殺計画に反対していたという。
- 世民は楊氏を気にかけ東宮に移り住まわせ、やがて情を通じるようになり、これがのちの醜聞として語られる。長孫氏も当初は事の経緯を知らずに世話をしていた。
内禅と太宗の即位
- まもなく高祖は太上皇となり、世民(太宗)に譲位。太宗は即位に伴い大赦・減税などの恩詔を発し、宮女3000人を解放、長孫氏を皇后に立てた。
- 長孫皇后は倹約を旨とし、政治への容喙を厳に慎む賢后として描かれる。太宗は楊氏を妃として寵愛するようになり、建成・元吉をそれぞれ息王・海陵郡王(後に巣王)として改葬した。
突厥の再侵攻と便橋の盟
- 突厥の頡利可汗は梁師都の煽動もあり、突利可汗と共に十余万騎で侵攻。尉遅敬徳は涇陽で撃退するが、頡利本隊は渭水の便橋まで迫った。
- 頡利の使者・執失思力が入朝すると、太宗は臆せず叱責し拘束。自らわずか六騎で渭水に赴き、頡利に「盟約を破ったのはお前だ」と一喝すると、唐の大軍が続々と姿を現し、頡利は動揺して退いた。
- 翌日、頡利は和議を求め、便橋で白馬を犠牲に盟約を結んで撤兵。太宗はその真意を「今はまだ国力が整わないため一旦和して虜の油断を誘い、力を蓄えて後に討つ」ためと説明した。
貞観改元と太宗の治世
- 太宗は将士に殿庭で弓術を習わせ自ら教師となり、周囲の懸念にも「天下を信頼してこそ治まる」と応じた。
- 年が改まり貞観元年となる。太宗は〈秦王破陣楽〉を奏でさせ、「武で乱を平らげ、文で守成する」との考えを示し、佞臣ぶりを見せた封徳彝をたしなめた。
- (詩:隋が佞臣によって滅んだ教訓が唐にも残ることを詠む)
- 末尾、燕郡王李芸(羅芸)の謀反の報が入り、次回に続く。
評語
- 弟の妃を娶ったことは、太宗ほどの名君であっても倫理に反する行いであり、唐室の後宮の乱れの一因となった。楊氏も夫の仇と知りながら身を委ねた点で恥じるべきである。この一件は淫を誘うためではなく、悪を戒めるために描かれている。
- 一方、突厥への対応は太宗の器量を示すもので、従容と敵を退け、片言で盟約を定めた手腕は蕭瑀・封徳彝の及ぶところではない。人物の是非を公正に描き分けている点に、この回の史筆の確かさが表れている。