臺灣外紀武平伯、力めて納款を勧む/寧靜王、一門が烈に殉ず(卷二十九 武平伯力勸納款 寧靜王一門殉烈)
呂宋遠征論の頓挫
閏六月四日、馮錫范は諸将と呂宋遠征を協議したが、兵たちが略奪の噂に浮足立ち、民は不安に陥った。劉国軒は、澎湖既失の今、貴重な財物を船に積んだまま出航すれば兵の裏切りを招く恐れがあると諫め(錫范の父・馮澄世が過去に同様の事件で殺された例を引く)、いっそ版図をあげて清朝に降ることを勧めた。錫范は当初抵抗したが、国軒は「戦えば勝敗は測り難く、降れば安泰」と繰り返し説得した。折しも施琅の使者・曾蜚が来て国軒に現職総兵の地位保証を約したため、国軒の決意は固まった。
降伏方針の決定
国軒は克塽に降伏の使者派遣を進言。錫范はなお渋ったが、国軒は過去の交渉失敗(張・卡両使、黄朝用の件)はすべて錫范の優柔不断のせいだと責め、「時務を識る者こそ豪傑」と迫った。錫范は反論できず、密かに投降を望む諸将も少なくなかった。克塽も、清朝の寛仁を信じて降表を差し出すことを決断し、鄭徳瀟に降表を起草させた。降表は先祖の功と台湾を保った経緯を述べ、清朝への帰順を誓う内容であった。あわせて劉国軒・馮錫范からも施琅に宛てた書状が送られた。
施琅の対応
六月初八日、鄭平英・林維栄らが降表を携え澎湖の施琅の元へ至ったが、琅は「澎湖決戦前ならばともかく、今になって降を乞うのは詭計に過ぎない」として、劉国軒・馮錫范本人が直接軍前に出て版図を差し出すことを要求し、使者を督撫へ送り返した。琅はこの経緯を詳細に上奏し、国軒・錫範が真に投降するならば台湾を平定できるとした。
再度の降表
七月十六日、曾蜚らが台湾に戻り琅の言を伝えると、克塽は逡巡の末、七月五日に国軒の説得を受けて改めて降伏を決意。鄭徳瀟に再度、より恭順な降表を書かせ、延平王の印冊・国軒と錫范の印を添えて、副使の劉国昌・馮錫韓を澎湖へ遣わした。
寧靖王朱術桂の殉節
明の宗室・寧靖王朱術桂は成功以来台湾に身を寄せていた人物で、人品高潔、書をよくし、鄭氏の将士・民から敬われていた。澎湖敗報を聞き「主幼く臣強く、天の時・地の利・人の和すべて失われた」と嘆じ、降伏の議が固まると「これぞ高皇に報いる日」と述べて、所有の田畑を小作人に分け与え、邸宅を仏寺に施した。妻に先立たれていた彼には侍妾の袁氏・蔡氏・荷姑・梅姊・秀姑の五人がおり、自由な再嫁を許したが、五人は殉死を望んだ。国昌らが降表を携え鹿耳門を発ったと知ると、術桂は棺を六つ用意させて宴を開き、五姫は先に首を吊って果てた。術桂は装束を整え、克塽・国軒・錫范らと別れを告げ、祖先と父母を拝し、辞世の詩を書き残したのち、自ら首を吊って死んだ。遺骸は克塽の命で丁重に収め、後に竹滬・大林に葬られた。国じゅうがこれを聞いて嘆き悲しんだ。
台湾の正式な帰順
七月十五日、澎湖の琅は馮錫圭らの来訪と何士隆の証言により降伏の真意を確認、十六日、吳啟爵・常在を台湾へ遣わし、削髪の布告を発するとともに就撫の経過を朝廷へ上奏した。十九日、吳啟爵らが台湾に至ると克塽以下文武百官が出迎え、二十二日には兵民に薙髪を命じた。
督撫との軋轢
総督姚啟聖・巡撫金鋐はこの間、独自に使者を台湾へ送り込んでおり、琅の使者と行き違いになる不手際が生じた。琅はこの経緯を上奏で不満気に述べつつも、事態が円滑に進んだことを喜んだ。
冊印の返上
七月二十七日、克塽は馮錫圭・陳夢煒・吳啟爵・常在に、延平王冊・金印および輔政公・武平侯・忠誠伯・左武衛らの印を持たせ、澎湖の琅の元へ送らせた。琅は詳細を上奏するとともに、督撫との齟齬を述べ、いざとなれば直接朝廷へ密奏する構えを見せた。
台湾の不安と施琅への催促
劉国軒は督撫と琅の不和が台湾の不安定を招くことを懸念し、密偵を配して警戒する一方、曾蜚を何士隆とともに澎湖へ送り、琅に一刻も早い渡台を要請した。琅はこれに応じ、船を整えて渡台の準備を進めた。