臺灣外紀江勝・邱煇、共に節に尽す/国軒、良驥で台湾に遁る(卷二十八 江勝邱煇雙盡節 國軒良驥遁臺灣)

澎湖決戦前夜

康熙二十二年六月十八日、施琅は呉英・朱天貴らと快速船で虎井から桶盤嶼・内外塹まで進み、賊の砲台と船の配置を偵察して未の刻に戻った。船団は水不足を案じたが、兵士が八罩の砂中を掘ると真水が湧き、貓嶼などでも同様であったため、一同は不思議がりつつも水の心配から解放された。十九日朝、北方に黒雲が湧き波が騒いだが、やがて雷が鳴り、琅はこれを天佑の兆と喜んだ。琅はさらに要害を偵察し、邱煇・江勝ら賊船もこれを見て応戦の構えを見せた。

布陣

二十、二十一の両日、琅は各船に配下の将の名を帆に大書させ、進退を遠望で判別できるようにした。二十二日、琅は諸将を東西二隊の奇兵・疑兵と、中軍以下八股に編成した本隊に分け、自ら中軍を統率して娘媽宮前へ進発した。劉国軒も砲声を合図に全船を出撃させ、両軍は娘媽宮前で激突した。

激戦

朱天貴は姻戚関係にある邱煇に投降を呼びかけたが拒まれ、邱煇の砲撃で脇腹を撃たれて戦死した。林賢はこれを見て突入し、劉国軒・邱煇・江勝ら多数の賊船に包囲されながらも力戦し、左腕を三度射抜かれ、弾薬が尽きると船の鉄鍋を砕いて砲弾代わりにするほどの奮戦を見せた。味方の援軍が内外から挟撃し、蔡明・王隆らの賊船を破った。国軒はいったん退いた。この戦いののち琅自ら林賢の船に登って労い、将来の爵位を譲ると約したが、林賢は間もなく戦傷が元で没し、太子少保を追贈され世襲を許された。

国軒はなお諸将を率いて反撃したが、呉英の船が浅瀬で座礁する危機を乗り越えて態勢を立て直し、琅は諸将を総動員して集中攻撃をかけた。同安の遊撃趙邦試が江勝の砲撃で戦死する一方、江勝自身も陳儒らに包囲され、逃れられぬと見るや自ら両舷の大砲を発火させて船もろとも沈んだ。陳立・林順ら多くの賊船も五隻がかりの包囲を受けて焼かれ、あるいは沈められた。邱煇は左足を撃ち砕かれながらも奮戦を続けたが、ついに自ら火薬庫に火を放って焼死した。国軒は残る諸将とともに力戦したが、味方は次々に沈められ、大勢は決した。

敗走

国軒は諸島が船で塞がれる中、唯一船のない吼門の水路を頼りに脱出を図った。水先案内の楊福は暗礁の多さを理由に難色を示したが、国軒は兜を脱いで天に祈り、命運を天に委ねて出航を命じた。果たして潮と風に恵まれて無事に吼門を抜け、黄良驥・林応ら残存船とともに台湾へ逃れた。琅は陳蟒に追跡を命じたが、水路に不案内で追いつけなかった。

日没とともに琅は軍を収め、投降を呼びかけた。娘媽宮の砲台を守っていた楊徳・陳明ら諸将は孤立無援を悟って武装を解いて投降し、外塹・内塹・風櫃尾など各島の守将も次々に降旗を掲げた。ただ西嶼頭を守る呉潜だけは、江勝・邱煇の言に従わなかったことを悔い、「大丈夫たる者、戦場で死ねぬのは恥」と剣で自刎し、部下の林好がその兵を率いて降った。

澎湖平定と朝廷の褒賞

こうして澎湖三十六島はことごとく帰順し、琅は投降者に薙髪を命じ、偽鎮将百六十五人に袍帽を、兵四千余名に銀米を与えて安民の布告を出し、大捷を朝廷に報じた。八月十五日、上奏文が届くと皇帝は大いに喜び、自らの衣を解いて琅に賜り、詩を添えた勅諭を送った。琅は靖海将軍に任じられ、靖海侯に晋封されて世襲を許された(著者は後年澎湖を訪れた折の感懐を漢詩に記している)。

台湾の動揺と呂宋遷都論

六月二十二日、劉国軒は吼門を脱してようやく台湾に帰り、鄭克塽・馮錫范・陳絅武・洪磊らに敗戦の次第を報告した。台湾の民は動揺し、錫范は鹿耳門の防備を固め、村落からの出入りを禁じて文武を集め対策を協議させた。建威中鎮の黄良驥は、澎湖失陥で台湾も危ういとして、船と兵民を率いて呂宋(フィリピン)へ移り新天地を築くことを提案し、洪邦柱もこれに賛同したが、克塽は決断できずにいた。中書舎人の鄭徳瀟は地図を示しつつ呂宋の地勢・気候・物産を説き、スペイン人(佛郎機)が策略で土地を奪い、天主教で人心を籠絡し、華人を虐げてきた歴史的経緯を詳述したうえで、この機に呂宋を取ることを上策として進言した。錫范はその詳細さに感服し、鄭明・黄良驥・洪邦柱らを先鋒として出兵の準備を進めさせた。

内応の動き

淡水を守る何祐は澎湖陥落の報を受けると、密かに子の何士隆を澎湖の施琅陣営へ送って降伏の意を伝え、克塽の命を待たずに軍を撤収した。林亮・董騰・蔡添らも密かに間者と通じ、施琅に台湾攻撃を促して内応を約した。