臺灣外紀施将軍、台湾存置を議す/大清国、四海太平となる(卷三十 施將軍議留臺灣 大清國四海太平)
施琅の渡台準備
八月九日、施琅は上奏し、糧餉輸送の遅れや督撫との連携の事情を説明したうえで、劉国軒・馮錫范の書状で台湾の民心不安が伝えられたことを報告、澎湖に守備兵を残して十一日に渡台する旨を上奏した。あわせて六月の戦闘で右目を負傷し、なお癒えぬ体調を訴え、任務完了後の帰還を願い出た。
台湾入城
八月十一日、琅は呉英・林賢・陳昌ら諸将とともに澎湖を出港。克塽は何士隆・禮官鄭斌や父老を鹿耳門に遣わして出迎えさせ、自らも国軒・錫范ら文武百官と土民を率いて歓迎した。船団は風の弱さから十三日にようやく到着し、港路の複雑さで数隻が損傷したが、何祐の水先案内で無事入港。琅は上陸して陣を敷き、国軒らと歓談して過去の敵対を忘れるほどに打ち解けた。略奪を厳しく禁じたため民は安堵し、十八日には吉日を選んで薙髪の儀を行い、諸社の原住民にも袍・帽・銀牌・煙草・布などを与えて懐柔した。
施琅の奏報
琅は渡台の経過を詳細に上奏。澎湖に守備兵を残したこと、鹿耳門での出迎え、薙髪の実施、原住民への恩賞のほか、明の宗室・魯王世子朱桓や慮溪王朱慈爌ら数名が投降し金冊を差し出したこと、寧靖王朱術桂が澎湖陥落を知って一家自決した経緯にも触れた。また台湾の地勢が険阻で、劉国軒の決断が無血開城に大きく貢献したことを称え、投降兵の処遇や糧餉の手当てとして内地の余剰兵制の削減を提案した。
鄭成功廟への祭文
八月二十二日、琅は鄭成功の廟に牲幣を捧げて祭り、かつての深い恩義と後の対立に触れつつ、今回の平定は私怨ではなく朝廷への忠義によるものだと述べ、涙を流した。
南北路の視察
八月二十三日、琅は呉英・国軒とともに南北の地を視察し、山川の険しさと土地の肥沃さ、人口の多さを確認。この地を放棄すれば賊の巣窟となるか、オランダ(紅毛)に再び奪われる恐れがあると考え、防衛拠点として確保すべきと判断した。二十六日に帰還し、二十八日には朱桓ら明宗室を厦門へ移送した。
論功と関係者の処遇
九月一日、劉国軒は「台湾の事は既に片付いた。自分がいつまでも留まれば要らぬ疑いを招く」として単身入京し、生死を朝廷に委ねたいと願い出た。琅はこれを許し、六日に国軒は台湾を発って北京で皇帝に謁見、天津衛総兵に任じられた。鄭克塽・馮錫范・洪磊・陳絅武らも後に厦門経由で北京へ送られ、克塽は正黄旗漢軍公、錫范は正白旗漢軍伯に封じられ、京師に邸宅を賜った。
班師
十一月、諸事が整うと琅は台湾の統治を呉英に委ね、二十二日に台湾を離れて班師。澎湖に立ち寄って戦没将士を弔い、二十六日出航、二十七日厦門に帰着した。
台湾棄留論
十二月一日、琅は福州で総督蘇拝・巡撫金鋐らと台湾の存廃を協議したが議論はまとまらず、琅は台湾保持を強く主張する上奏を行った。台湾は江浙閩粤四省の防壁であり、土地は肥沃で物産豊かであること、放棄すれば流民や海賊の巣窟となり、あるいはオランダに再び占拠されて沿海諸省を脅かす恐れがあること、逆に澎湖のみを守っても台湾なくしては孤立無援となることを説き、台湾府として総兵一・水師副将一・陸師参将二・兵八千、澎湖に水師副将一・兵二千、計一万の兵で十分に防衛できると具体的に提言した。あわせて内地の余剰兵を削減してこの費用に充てる案も示した。
朝廷の裁定
皇帝はこの上奏を部議に付し、台湾を台湾府として設置し、台湾・鳳山・諸羅の三県に分けること、道官一員を置くことなどが決定され、「依議」の勅が下った。こうして台湾は正式に清朝の版図に組み込まれ、学校が置かれて教化が進み、海外の文物豊かな地となった。
評語
著者は末尾で、かつて厦門の鼓浪嶼に落ちた雷震石に刻まれていたという予言的な文言(「草雞夜鳴、長耳大尾…」等)を紹介し、事後にこれを鄭芝龍・鄭成功・馮錫范・姚啟聖・施琅・康熙の平定までを言い当てたものと解釈して、天命の巡り合わせに感慨を記している。