臺灣外紀施提督、連疏し勲を議す/姚即院、使を遣り再撫す(卷二十六 施提督連疏議勛 姚即院遣使再撫)

劉国軒の澎湖出陣

康熙二十一年正月、国軒は新春の隙をつく不測の事態を懸念し、糧食と大軍を率いて澎湖の守りに入る。

施琅の南風進攻論

二月、施琅は李光地と密議し、南風を用いて銅山から進発する策を練り、皇帝へ専断の許可を求める密疏を上げる。督臣姚啓聖の同行を避け、自らに指揮を一任するよう願い出た。

天変と雞籠山の疫病

三月、台湾に不吉な白気が現れる。雞籠山に駐屯する将兵の間に疫病が広がる。

南風か北風かの対立

五月、施琅は南風での進撃を主張するが、姚啓聖は北風を待つべきと反対し、両者の意見は折り合わない。喇哈達の仲裁で進攻は延期される。

雞籠山の土番の蜂起

軍需の徴発に苦しんだ土番が通事を殺して糧を奪う騒動が起き、竹塹・新港などの社も呼応する。鎮圧に向かった葉明らは、吏官洪磊の進言により武力と懐柔を併用し、最終的に投降させて事を収める。

施琅の再度の上奏と喇哈達の誤伝への反論

七月、施琅は姚啓聖との「南風不如北風」論争の経緯を詳しく述べ、自らの真意が誤って伝えられたことを弁明する上奏を行う。台湾側の内情(劉国軒の威圧的な統率、投降者の証言による兵力・士気の実情)を詳細に報告し、南風による即時進攻の正当性を訴える。

天変と雞籠山の被害拡大

七月から八月にかけ、彗星や流星が相次いで現れ、雞籠山では将兵の病没が相次ぐ。

進撃の準備と師泉の逸話

九月、施琅は艦隊を集結させる。十月には進剿の勅命が下るが、姚啓聖はなお招撫を主張して意見が割れる。平海衛で水不足に悩んだ施琅が井戸に祈ると清水が湧き出たという逸話が伝えられ、その井は「師泉」と名づけられた。

北風による延期と招撫の試み

十一月、北風が強く進攻は見送られる。十二月、姚啓聖は劉国軒と旧知の黄朝用を台湾へ派して招撫を試みるが、馮錫范・陳繩武らの態度は定まらぬまま交渉は進展せず、国軒は台湾へ引き上げる。