臺灣外紀盛天福、𡒉を克ち監国す/坂尾寨で呉淑が身を喪う(卷二十三 盛天福克𡒉監國 坂尾寨吳淑喪身)
遷界の実施と修来館の懐柔策
康熙十八年正月、福建各地で沿海住民の強制移住(遷界)が実行された。姚啓聖は海澄未復を憂い、投降した黄性震の献策を容れ、漳州衛を「修来館」に改め投降者を厚遇する政策を開始。文武官・兵民問わず身分や髪の長短に応じて銀を与え、投降者は復職や配属を保証された。不正に何度も投降を装って賞を騙し取る者が現れても、啓聖は「来てくれるだけでよい」と咎めず、結果として投降者が続出した。江東橋の要衝には詹六奇を専任の副将として配置した。
果堂をめぐる攻防
劉国軒は江東の重兵配備を見て、姚啓聖が果堂方面から進軍すると予測し伏兵を準備。二月、賴塔・韓大任らが果堂を攻めた際、国軒・呉淑の伏兵が四方から起こって清軍を撃退した。詹六奇は陸軍撤退の報を受けて三叉河への合流を控え、清軍は成果なく退いた。
海戦(陳諒と林賢)
二月、鄭軍の陳諒は水師を巧みに配置し、清の林賢艦隊と五虎門付近で激突。互いに損害を出しつつも南風に乗じた陳諒側がやや優勢に立ち、林賢は撤退した。陳諒は戦功により北路統領に昇進した。
廈門の重課と諸将の辞俸
糧餉不足のため鄭経は廈門の富民や住民に助餉を課し、負担は月を追って重くなった。劉国軒は自ら俸禄を辞して部下の兵を私費で養う申し出をし、呉淑・何祐・江勝・林陞らもこれに倣った。一方で過重な徴発への不満から、呂韜・陳士愷・鄭奇烈ら諸将の投降が相次いだ。鄭経は横暴な徴発を禁じる布告を出したが、根本的な改善には至らなかった。
鄭克𡒉の監国
台湾を預かる陳永華は、鄭経の弟たちが民田を横領する事態に対処しきれず、経の子・克𡒉(永華の婿)を監国に立てるよう進言。鄭経はこれを容れ、四月に克𡒉が監国となった。克𡒉は聡明果断で、専横しようとする叔父たちを退け民心を得た。
東石の塩務と楊忠の死
姚啓聖が東石近くに「霊水寨」を築いたことで塩の流通が乱れ、鄭軍は塩務役人を置いて統制しようとしたが、林陞配下の楊忠が命令を無視して深滬に長く留まり、清の馬勝の急襲を受けて投海死した。鄭経はこれを惜しみ、塩務の強行を中止させた。
潯尾寨の築城と江機の投降
国軒は同安と廈門をつなぐ要地・潯尾に城塞を築き清軍の攻撃を撃退、さらに石城・土城を各地に築いた。また耿精忠配下だった江機(渾名「楞子」)が浙江・江西方面で抗戦を続けた末、清の追討に窮して鄭経に投降を申し出て許された。
和議交渉の再挫折
康親王は招撫を諦めず使者蘇埕・傅為霖を通じて交渉を重ねたが、海澄の扱い(朝鮮同様に版図外とするか、鄭氏の公所として残すか)で折り合わず、交渉は再び決裂した。姚啓聖も海澄の割譲は認めない姿勢を崩さなかった。
水師提督人事と艦隊増強
黄芳世の死後、姚啓聖は施琅の起用を上奏したが、朝廷は王之鼎を任じ、後に万正色に交代させた。啓聖は福州・浙江・潮州で大規模に軍船を造らせ、水陸合同の攻勢に備えた。
陳汝器の解放
清の使者陳啓泰の子・汝器が鄭軍に捕らえられていた一件は、姚啓聖らが銀一万両を出して身柄を贖い、決着した。
東石寨の陥落
林陞配下の施廷・陳申が守る東石寨は、内輪もめから逃亡した部下の密告により清の楊捷に急襲され、両将とも討死し全滅した。清軍はこの地に新たに三寨を築いて防備を固めた。
坂尾寨の築城と呉淑の死
東石陥落を受け、劉国軒は果堂の後方に坂尾寨を築くことを決め、呉淑・江勝に築城を命じた。清の耿精忠・喇哈達・賴塔・姚啓聖らの猛攻を受けたが、国軒・何祐・林陞らの援護もあって撃退に成功、寨を完成させた。呉淑はその後も坂尾を守り抜き、姚啓聖の内通の誘いも「二度と汚名は着ぬ」と拒絶。しかし長雨で新造の寨の壁が崩れ、十一月八日夜、呉淑は崩れた壁の下敷きとなり従者七人とともに死去した。国軒は駆けつけて号泣し、鄭経も柩を迎えて痛哭、呉淑の子・天馳が後を継いで兵を統率した。
財政をめぐる文武の対立
鄭経は武将の辞俸に対して文官にも協力を求めたが、陳繩武の反対で立ち消えとなった。
施明良・王世澤の内通
劉国軒は鄭経が側近に取り込まれ政務が乱れているのを憂慮していた。亢宿鎮施明良(施琅の一族施鳳)は姚啓聖に通じ、鄭経捕縛と引き換えに公爵を得る密約を結び、陳繩武・馮錫範に取り入って重用されていた。施明良はさらに傅為霖や、施琅の養子で一時清に投降していた王世澤を仲間に引き入れ、鄭経・繩武・錫範は誰もその陰謀に気づかなかったが、劉国軒だけは常にこれを警戒していた。
荷蘭への援軍要請
姚啓聖はかつての厦門攻略でオランダが先導役を務めた前例に倣い、朝廷の許可を得てオランダに使者を送り、両島攻略後に台湾を返還する条件で参戦を求めたが、オランダ側は過去の約束不履行を理由に艦船の派遣を拒み、交渉は不調に終わった。