臺灣外紀国軒、衆を率い泉城を囲む/啓聖、題を具し復た遷界す(卷二十二 國軒率眾圍泉城 啟聖具題復遷界)
同安占領と泉州包囲
海澄陥落後、呉淑は漳州城への進撃を進言したが劉国軒は手足を断つ策を優先し、まず同安へ進んで清の援軍を破って占拠、続いて泉州を包囲した。水陸から攻め寄せ洛陽橋を奪うなど攻勢を強めた。
属邑の相次ぐ陥落
国軒配下の諸将は南安・永春・徳化・安渓などを次々に攻略し、清側の知県らは戦わず退去した。姚啓聖はこの状況を「兵力の分散はかえって弱体化を招く」と楽観視し、清援軍(石調声・吉爾他布・楊捷ら)の到着を待った。
民力の疲弊と論功行賞
長期の包囲で軍需負担が民に重くのしかかり、国軒・呉淑は課税の乱立を批判する上申を行ったが改善には至らなかった。一方、玉洲・三叉河から海澄陥落までの戦功が総括され、国軒は平北将軍武平伯、呉淑は平鹵将軍平鹵伯にそれぞれ晋封された。
清軍の泉州救援と国軒の撤退
清軍は喇哈達・呉興祚らが漳平経由の奇路を進んで泉州救援に向かい、投降した黄瑞鑣を先導に安渓の李光地とも合流。清の大軍が集結する中、国軒は兵力不足を悟り泉州の包囲を解いた。
蕭琛・江元勲の敗死
清の水師出撃に備えていた鄭軍の水師中鎮蕭琛と江元勲は意見が対立し、元勲は独断で出撃して林賢の水軍に大敗、全軍を失った。事態を座視した蕭琛は鄭経の命で処刑された。
長泰の敗戦と江東橋の喪失
九月、姚啓聖の攻勢に対し国軒・呉淑が防戦したが、清の耿精忠・啓聖らの猛攻を受けて大敗し、渡河できず溺死者が万余に上る惨敗を喫した。清軍は長泰を回復し江東橋にも浮橋を架けて漳泉往来を確保、包囲網をさらに狭めた。
招撫工作の失敗と遷界令
姚啓聖は張雄・黄志美を使者に立て重ねて招撫を試みたが、鄭経は海澄の割譲を拒み交渉は成立しなかった。啓聖はやむなく沿海住民を内地へ移す「遷界」を親王・呉興祚と連名で上奏し、十二月に許可された。ただし広東の尚之信の反対により、広東では遷界が実施されなかった。