臺灣外紀劉国軒、江東で大いに暴れる/段応挙、海澄で囲まる(卷二十一 劉國軒大鬧江東 段應舉被困海澄)
劉国軒、専征の権を得て出陣
康熙十七年正月、清の陸路提督段応挙が日湖・東石で鄭軍を破った。劉国軒は鄭経に「外征の将には掣肘を受けぬ権限が要る」と進言し、上方の剣と専断の権を得て正総督となり、呉淑を副えて出陣した。
江東・石碼をめぐる攻防
国軒は海澄の玉洲・三叉河・福滸を次々に降し、江東橋を焼き落として漳泉の連絡を断った。清の援軍(姚儀ら)を偽装退却でおびき出し伏兵で撃破するなど巧みな用兵を見せ、石碼も夜襲で奪取した。副都統孟安の反撃も退け、諸将の動揺を斬首で戒めつつ勢いを保った。
蔡寅の乱の鎮圧
一方、白頭賊蔡寅の残党は長泰・天保付近で略奪を続けていたが、海澄公黄芳世の討伐により大敗し四散した。
水頭山の偽退却策
国軒は郎廷相配下の黄芳世が水頭山に布陣していると知り、全営を焼き払って偽りの撤退を演じた。油断した芳世を海路から奇襲し、背後にも別動隊を回して挟撃、芳世を敗走させ大勝した。この功で国軒は中提督に昇進し専征の権を得た。
祖山頭の戦いと海澄包囲の始まり
段応挙は江東橋の焼断で海澄への糧道が絶たれる中、祖山頭に布陣したが、国軒の別動隊に本営を奪われ三方から攻められて大敗、海澄城に逃げ込んだ。国軒はこれを追い城を包囲する態勢を固めた。
海澄籠城戦
段応挙・黄藍らは籠城を選び、燈火寨など要地の放棄をめぐり意見が割れた。国軒は籠城側の兵糧不足を見越し西門だけをあえて開けて様子を見たが、応挙が退去する気配がないため包囲を継続。清側は郎廷相に代えて姚啓聖を総督に、呉興祚を巡撫に任じ、楊捷を援軍に投入するなど態勢を立て直した。国軒は夜襲で城の大砲を破壊するなど城方を追い詰め、呉淑は敵中の要地・燈火寨を奇策で守り抜き、賴塔・韓大任らの反攻も撃退した。
海澄陥落
籠城は八十三日に及び、糧食が尽きて人心が乱れる中、清側は投降を勧めたが段応挙は拒絶した。六月十日、国軒は総攻撃をかけて城を陥落させた。応挙は副都統穆黒林と共に西門楼で自ら首を吊り、希佛は火を放って自害するなど、清側の守将は多くが討死・自刃した。国軒は応挙らの遺骸を丁重に葬り、鄭経も米を送って窮民を救済した。降将らは処遇されつつも、鄭経は寝返りを警戒し一部を処刑した。
その後
海澄公黄芳世は病死し、清朝は爵位を継がせた黄芳泰を汀州へ移し、旧勢力の削減を図った。
評語
海澄籠城戦で命を賭して城を守り抜いた段応挙・穆黒林・希佛の忠節を、後世の詩は「一片の白布に身を投じて忠義を貫いた」「炎に身を隠しても節を全うした」と称え、忠臣としての名を末永く伝えるべきだと評している。