臺灣外紀七府で敗れ国泰が法を執る/潮州に入り進忠が帰正す(卷二十 敗七府國泰執法 入潮州進忠歸正)
趙得勝の戦死と興化・泉州の陥落
康熙十六年正月、趙得勝と何祐は興化を守っていたが、清軍の喇哈達・賴塔らが満漢の大軍を率いて迫った。得勝は許耀に別動隊で敵の背後を突かせようとしたが山道が険しく進軍が遅れ、召還する間に何祐が功を焦って出撃し敗退。得勝も救援に出て敗れ、味方に見捨てられる形で全軍が壊滅し、得勝は力尽きて討死した。何祐は城門を固く閉ざして遁走を許さなかったが、夜のうちに自らも泉州へ逃げた。 続いて清軍は洛陽橋を破り泉州も陥落。鄭経は漳州で敗報を受けて動揺し、馮錫範・陳繩武らと廈門へ退いた。清軍はさらに漳州も接収し、賴塔の別働隊は詔安・雲霄方面へ進み、潮州の劉進忠の勢力圏に迫った。
鄭経の廈門撤退と軍紀粛正
廈門に逃れた鄭経のもとには諸将が続々と帰参し、態勢を立て直した。陳繩武は兵権が集中しすぎた呉桂を都督に祭り上げて実権を子に移すなど、内部の統制を図った。台湾の陳永華は敗戦の顛末を董国太に報告し、国太は激怒して敗軍の責任者許耀・薛進思の処断を命じた。許耀は弁明して助命され、洪磊の保証で再起の機会を得たが、まもなく病死した。鄭経は民衆の引き留めもあって台湾へは戻らず廈門に留まった。
諸鎮の沿海配置
四月、陳繩武の献策により諸鎮を沿海各地に分散駐屯させ、現地調達で兵糧をまかなう体制を整えた。林陞・蕭武・陳陞・蔡衝琱・石屏・陳勝・江元勳・林瑞驥ら諸将をそれぞれ晋江・南安・恵安一帯や福清・長楽、浙江方面にまで配置し、防衛網を張り巡らせた。
康親王からの招撫と鄭経の拒絶
康親王は漳泉平定後、廈門にとどまる鄭経に使者を送り、清への帰順を勧める書を送った。鄭経は先王以来「薙髪」だけを拒む立場を崩さず、朝鮮同様の待遇であれば従うと返答し、事実上招撫を拒絶した。親王はその主張を狂妄とみなし交渉は決裂した。
蔡寅の「朱三太子」騒乱
その隙に乗じ、漳州の蔡寅が妖術めいた符呪で人心を惑わし「朱三太子」を僭称して蜂起、泉州城への夜襲を試みたが失敗し敗走した。それでも威名は衰えず、南靖・長泰・同安の山間に多くの徒党を集め「白頭賊」と呼ばれ官軍を苦しめた。彼が漳浦の僧道一の飼い犬の霊験にあやかって布教していた逸話も語られるが、後にその霊験は失せ、蔡寅は総督姚啓聖に敗れて鄭経のもとへ投じ、蕩虜将軍に任じられた。
劉進忠の帰順
潮州総兵劉進忠はかねて鄭経に距離を置いていたが、興・泉・漳の相次ぐ陥落を見て清側に接近。馬三奇からの書状で招かれ、心を動かされて姚啓聖・王綸の勧降を受け入れる。左鎮何鳴鳳の進言で使者の身の安全を図りつつ、六月六日に薙髪して帰順し、徴逆将軍徴逆伯に任じられた。 一方、劉国軒は興・泉・漳・汀・邵の相次ぐ失陥を嘆き、進忠との盟約に従って恵州・潮州の防備を固めていたが、進忠帰順の動きを知ると輜重・兵器一切を清の陳璉に譲り渡し、単騎で廈門へ引き揚げた。その途上、何祐とも合流し、鄭経に迎えられた。 また、親王は招撫が実らぬ中、内院覚羅拓の名で重ねて長文の勧降書を送ったが、鄭経・馮錫範らはこれも拒絶し、交渉は再び物別れに終わった。 十月には黄梧の子・黄芳世が清に海澄公の爵位を継ぎ福建水師提督を兼ねるなど、清側の体制強化が進んだ。年末には劉国軒が兵備を整え沿海の防衛を強化した。