臺灣外紀福省を平げ范公が節に死す/龍江の戦いで許耀が逃竄す(卷十九 平福省范公死節 戰龍江許耀逃竄)
范承謨の獄中詩(続)
康熙十五年(永暦三十年)正月元旦、なお幽閉されたままの范承謨は北を拝して叩頭し、再び炭で壁に忠節の詩を書き残した。
潮州・恵州方面の進撃
劉進忠は国軒・何祐・江勝らと合流して王国棟を圧倒し、水軍で碣石を攻略。守将の妻の説得で碣石総兵苗之秀も降伏し、程郷一帯は鄭経方の手に落ちた。さらに恵来・興寧・長楽方面へも進み、王国棟・厳自明は羊蹄嶺を放棄して恵州府へ退却。鄭経方は恵州・帰善の両城を包囲するが、水路に守られた両城は容易に落ちず、博羅県攻めでも黄経邦・曾大用ら将が戦死する犠牲を出した。
広東方面の情勢
呉三桂配下の馬雄・郭義が広西へ侵攻し清の総督金光祖は敗走。尚可喜は老病のため軍務を子の尚之信に委ね、之信は新会方面の防衛に努めるも、鄭経方の邱煇らの水軍が虎門に迫ると東莞総兵張国勲も降伏。之信は劣勢のなか馬雄・郭義を通じて呉三桂に帰順を申し出た。
三勢力の和睦(呉三桂・尚之信・鄭経)
呉三桂は之信を輔徳公に封じるとともに、馬雄・郭義を通じて鄭経とも和議を仲介。恵州の帰善・博羅は鄭経方に譲られ、東莞・新安・石竜を境として休戦が成立した。鄭経は国軒に恵州を守らせ、進忠ら諸将を潮州へ帰還させ、呉三桂との江西方面での合流に備えた。
汀州の攻略
耿精忠配下の馬応麟は精忠から疑いをかけられたことを機に、鄭経へ内応して汀州を献じようと通謀。鄭経は陳縄武の勧めに従いこれを受け入れ、呉淑に汀州入りを命じた。精忠方の蔡達は不穏を察して抵抗したが、応麟軍の攻撃と内応者の開門により汀州は陥落、蔡達は福州へ敗走した。鄭経は応麟を奉明伯に封じ汀州を守らせた。
耿精忠の孤立
蔡達からの報告で応麟の内応を知った精忠は激怒し使者を送って詰問するが、鄭経は言を左右にしてはぐらかした。精忠配下の徐光武は密かに清の和碩康親王へ内通を図るなど、精忠陣営の動揺が広がった。
仙霞関の陥落と康親王の入関
精忠配下の馬九玉が康親王に内通して退兵し、清軍は仙霞関を無血で突破。興化の馬成龍も鄭経へ寝返り献城した。鄭経は諸鎮を漳州へ集結させ守りを固めた。
尚可喜の死
広東で尚可喜が死去し、之信が跡を継いで輔徳親王に晋封された。
汀州方面の増援と閩安・烏龍江の攻防
呉淑は汀州の守りが手薄なことを訴え、鄭経は薛進思らを増援に送った。一方、耿精忠配下の曾養性は軍資に窮し、布政使蕭震に無理な献金を強要して殺害する暴挙に出るなど内部が乱れた。清の康親王が仙霞関を越えて福建へ迫ると、精忠は動揺し薙髮して帰順する方針を固める。范承謨は帰順の動きを喜ぶが、精忠側は口封じのため密かに承謨とその一族・幕客ら五十三人を殺害させた(承謨は後に「忠貞」の諡を受け福州で祀られた)。
耿精忠の帰順と清軍の福州入城
精忠はついに剃髪して清に帰順し、康親王は福州へ入城して安民を布告した。しかし興化の馬成龍は鄭経方に寝返り、邵武を守る楊徳・邢羽も鄭経方に付くなど、旧耿藩の諸将の去就は割れた。
烏龍江の戦い(許耀の大敗)
鄭経は洪磊の推薦で許耀を総督とし烏龍江西岸の守りを任せたが、陳縄武ら六官の間では人選をめぐり意見が対立した。許耀は名声こそ高いが器量に乏しく、清の大軍を前に浮足立ち、増援を繰り返し要請しつつも実効ある策を打てなかった。康親王方の馬九玉・喇哈達・賴塔らが渡河作戦を敢行すると、鄭経方は総崩れとなり、江勝は重傷、許耀は敗走して興化まで逃げ延びた。鄭経は趙得勝を新たな総督として立て直しを図ったが、劉進忠は救援命令に従わず独自の動きを見せ始めた。
邵武方面の敗退
康親王配下の穆黒林が邵武を攻め、呉淑・呉潜兄弟がこれを迎え撃つが、弟の呉潜が独断で渡河進撃した末に清軍の奇襲を受けて大敗。汀州を守っていた薛進思も動揺して漳州へ退却し、これを諫めた劉応麟は失望のあまり病死した。呉淑は建寧・汀州の防衛も崩れたことを知り、やむなく軍を漳州方面へ撤収させた。