臺灣外紀南邦を授かり之信が敵に遇う/清漳を破り呉淑が城を献ず(卷十八 授南邦之信遇敵 破清漳吳淑獻城)

范承謨の獄中詩

康熙十四年(永暦二十九年)正月元旦、幽閉されたままの范承謨は絶食十余日に及ぶも守者に諭されて水を口にし、なお節を守る決意を炭で壁に詩として書き残した。

鄭経・耿精忠の一時的和議

鄭経は泉州承天寺で永暦二十九年の朝賀を行う。耿精忠は独自の年号・貨幣(裕民銭)を用いて統治を進める一方、王進の敗戦が続いたため鄭経へ改めて講和を申し入れ、戦船五隻を贈って協力を約す。楓亭を境として通商を許す和議が成立し、鄭・耿両者はしばらく友好関係となった。

潮州をめぐる攻防

広東の尚之信は潮州へ援軍を送るが、鄭経方の何祐らが百子橋で伏兵を用いて之信軍を大破し、二千余の死者を出させた。籠城していた沈瑞(続順公)は糧尽き、之信の敗走を見て降伏を申し出、鄭経は爵位を一等下げて懐安侯とし廈門へ移した。

漳州方面:黄芳度の離反

鄭経は洪承疇の祠を毀し、黄道周・蔡道憲を祀るなど清朝関係者への処断を進める一方、永春の反乱者呂華を降した後に処刑した。漳州の黄芳度は鄭経への従属に不満を強め、密かに清朝へ救援を求める上奏文を送るとともに、仙霞関の黄翌の部隊を漳州へ呼び戻すなど自立の動きを見せた。呉淑への相談の末、いったんは広東への逃亡も検討したが、結局は籠城しつつ広東の尚可喜へ援軍を要請する方針を採った。

鱟母山の戦い

潮州方面で清の王国棟が増援を得て進撃すると、劉進忠・劉国軒は策を練り、いったん退いて敵を誘い込んだ末に伏兵で包囲殲滅し、清軍に三千余の戦死者を出させる大勝を収めた。

黄芳度の挙兵と漳州包囲

黄芳度はついに剃髪して清に呼応し、漳州城に拠って抗戦の構えを見せる。鄭経は諸鎮を動員して漳州を包囲し、途上の要衝も次々と攻略しつつ、援軍として広東から向かう黄芳世・尚之信らの動きを牽制した。

漳州攻防の激化

籠城側は火薬を府内に置き自焚も辞さない構えで抗戦し、砲撃による城壁崩壊と即時修復の応酬が続く。陳驥・呉智らの決死の夜襲もあったが、呉智は砲撃で負傷し死去するなど、双方の消耗が続いた。

呉淑・呉潜兄弟の内応

広東からの援軍が来ぬまま兵糧も窮乏し、軍心が動揺する中、呉淑の弟呉潜は陳士凱と諮って開城降伏を画策。呉淑は当初躊躇したが、潜が独断で馮錫範に内応を約し、ついに東門を開いて鄭経軍を迎え入れた。

黄芳度の最期

落城を知った黄芳度は自害を試みるも果たせず、最後は開元寺の井戸に身を投げて命を絶った。鄭経は入城後、黄一族と旧臣を捕らえて処刑し、黄梧・芳度の遺骸を晒したが、黄梧の祖墳への報復は「罪はその身に止める」として許さなかった。以後、鄭経は漳州に本拠を移した。

広東救援隊の失敗

黄芳世・尚之信らの救援軍は永定県の抵抗に手間取り、漳州陥落の報を得て空しく撤兵、広東へ引き上げた。

尚可喜の書簡と鄭経の返書

尚可喜は劉進忠の裏切りと芳度の悲運を嘆き、鄭経に翻意と提携を促す長文の書を送るが、鄭経は「老いぼれの繰り言」と一蹴し、逆に清への従属を非難する返書を送った。

年末の情勢

十二月、劉進忠・劉国軒は普寧の王国棟を攻める構えを見せ、老病の尚可喜のもと清軍の士気は振るわず、王国棟・厳自明はついに退却の兆しを見せる。