臺灣外紀明尚書、閩に入り撫を議す/范総督、赴任し琉球に上る(卷十五 明尚書入閩議撫 范總督抵任上琉)
展界の実施
- 康熙八年二月、遷界が緩和され民は復業するが、臺灣に関する規制は広東ほど緩和されなかった。王来任・周有徳は広東の民から慕われ、後に祠が建てられ春秋に祭られる。
明珠・蔡毓栄の招撫使節
- 六月、朝廷は刑部尚書明珠・兵部侍郎蔡毓栄を福建へ派遣し、靖南王耿継茂・総督祖沢沛とともに招撫を協議させる。興化知府慕天顔・都督僉事季佺が詔書を奉じて臺灣へ渡る。
- 経は使者を礼遇するが詔書の受領は拒み、明珠への返書で「朝鮮の例に倣うなら応じるが、薙髪は死んでも受け入れない」との立場を明言する。
- 慕天顔は経の返書中の語句(「麟鳳の姿は籠に囚われず」等)を論難し、清朝の大一統の立場から臺灣を対等な「通好」の相手として扱うことはできないと主張。柯平・葉亨との間で使者としての礼遇(正門から入るか角門からか)を巡っても押し問答が続く。
藩封交渉の決裂
- 明珠らは「臺灣に世封を許す」との条件を提示するが、薙髪と臣礼を伴うものであり、経はこれを拒否。慕天顔・耿継茂それぞれに宛てた返書で、「衣冠は自ら有するもの、爵禄も自ら有するもの」として朝鮮とは異なる独自の立場を主張し、方国安・孫可望らかつて清に降った者たちの末路を引き合いに警戒感を示す。
- 交渉は不調に終わり、明珠・耿継茂・蔡毓栄は北京へ帰還する。
厦門の江勝と邱煇の合流
- 九月、招撫は不成立のまま、江勝は厦門で略奪を禁じ辺境との融和を図る。広東の海賊邱煇(達濠を根城とする)が江勝を通じて経への帰順を願い出て、陳永華の進言により受け入れられ義武鎮に任じられる。これにより臺灣の交易はさらに拡大する。
阮欽為の裏切り
- 康熙九年三月、経は舟山・南日方面の守将阮欽為の忠誠を疑い、黄応を派遣して監視させる。欽為は密かに清への投降を計画し、猛将呂勝を謀殺したうえで清の泉州提督王進功のもとへ投降する。
平穏な年と呂宋遠征の議論
- 康熙十年、沿海は豊作だが臺灣は不作。経は諸島の守将に住民との融和を命じる。
- 康熙十一年正月、顔望忠・楊祥が呂宋(フィリピン)遠征を進言するが、馮錫范は「大義名分がなく、得るものも少なく、守るのも困難」として反対し、議は取り止めとなる。
三藩の乱の勃発
- 康熙十二年、広東の平南王尚可喜が引退を願い出て許可されると、平西王呉三桂・靖南王耿精忠(耿継茂の子)も同様の願いを出す。
- 八月、耿精忠は密かに鄭経に密使黄鏞を送り、共に清に叛いて挙兵することを提案する手紙を送る。経は大いに喜び出兵準備を始める。
- 十月、経は澎湖まで進軍して情勢を見るが、雲南で呉三桂が挙兵し湖南方面が動揺すると、朝廷は三藩の撤廃を一時停止。耿精忠も動揺し経を呼び戻したため、経は臺灣へ引き返す。
范承謨の上疏
- 浙江巡撫から福建総督に転じた范承謨は、遷界後も依然厳しい規制が続く福建の窮状を見て長文の上疏を提出する。
- 遷界により田畑二万余頃が荒廃し、税収が大幅に減少している。
- 台寨(境界)をわずかに広げるだけでなく、実質的に旧地への復帰を認めるべきである。
- 漁業について「木筏取魚」の制度を設け、十筏ごとに組を作り連座で監視しつつ漁を許し、その一部を国課とする案を提示する。
耿精忠の不穏な動き
- 十一月、雲南・貴州・四川・湖南方面の戦乱を受け、各省で軍備増強が進む。耿精忠は「七星再拝真天子」等の讖言に心を動かされ、密かに兵糧を蓄え武具を私造して不穏な動きを見せる。
- 范承謨は精忠の異心を察知し、河南の人材(王子玉・王進・郭景汾)を招聘しようとするが、使者の王進は精忠に捕らえられ藩府に監禁される。范承謨はこの動きに気づいていない。