臺灣外紀漳州を下し啓泰が難に死す/海上に通じ三藩が共に挙兵す(卷十六 下漳州啟泰死難 通海上三藩俱舉)
耿精忠の挙兵と范承謨の監禁
康熙十三年(永暦二十八年)二月、靖南王耿精忠の反乱の気配が濃くなる。福建総督范承謨は側近から「城を出て延・建・汀・邵の上流を押さえ、七閩の兵を糾合すべき」と勧められるが、かえって反乱に名分を与えると考え動かなかった。三月十五日、精忠は藩衙への出頭を装って范承謨を誘い出し、伏兵で捕縛。抵抗した守備の廖有功は殺され、逃げようとした福州知府・建寧同知・閩県知県・侯官県知県らも殺害された。精忠は挙兵し、軍民に辮髪を切らせ「総統兵馬上将軍」を称し、范承謨を幽閉した。あわせて黄鏞を台湾に遣わし、鄭経に共同出兵と全閩沿海の水軍提供を約して協力を求めた。
鄭経の出兵
鄭経は書を受け、陳永華に東寧の留守を任せ、馮錫範に船隊を先発させたのち、薛進思・劉国軒ら諸鎮を率いて廈門へ進んだ。
耿精忠による福建平定
精忠は劉秉政・張文韜ら旧地方官を新政権の官職に任じ、耿継美・耿継善ら一族を各地へ派遣して仙霞関・杉関などの要衝を奪取させた。興化・恵安・泉州の諸鎮も次々と辮髪を切って呼応し、泉州提督王進功も剪辮して従った。
陳啟泰の殉節
漳州では海澄公黄梧が背中に疽を患い戦意を失う。汀漳道の陳啟泰は同志を得られぬと悟り、家族に自害を命じ棺を用意したうえで自らも縊死した。県の属官らはその忠義に涙した。後に鄭経が漳州に入るとその忠義を聞き、丁重に改葬させ、後年清朝からも「忠貞」の諡と祭祀を受けた。同日、黄梧も剪辮して降伏を申し出た。
呉三桂の調略と黄梧・趙得勝
呉三桂は挙兵前から海澄の趙得勝や黄梧に書を送り、清への義理を捨てて呼応するよう説いていた。趙得勝はこれを喜び、書を漳州の黄梧へも回した。黄梧も三桂の書に心動かされ、使者を厚遇して福州へ送った。
黄梧の死と呉淑の後見
四月、黄梧は落雷にたびたび遭って心を病み、まもなく疽が悪化して死去した。臨終に際し子の芳度を中軍の呉淑に託し、後事を頼んだ。呉淑は城内の守りを固め、混乱なく葬儀と芳度の襲封を進め、耿精忠から平和公に封じられた芳度を助けて軍備を整えさせた。
沿海諸鎮の降伏と鄭経・耿精忠の交渉
海澄総兵趙得勝・漳浦総兵劉炎も剪辮して耿精忠に降り、精忠は二人に将軍号を与えたが、鄭経軍の実情を見た劉炎の弟・劉煜の報告により、精忠は鄭経を軽視し海禁を厳しくして往来を絶った。一方、呉三桂は鄭経へ使者を送り金陵攻略への協力を促し、鄭経も応えて答書を送り、密かに黄興・楊信を泉・漳へ潜入させて呼応勢力を募るとともに、日本へ銭鋳造や武器調達の使者を出し、東南アジア方面との交易で軍需を補った。
福寧州・浙江方面の戦況
福寧州総兵呉万福は精忠に従わず籠城したが、部下の恨みを買い、精忠が送った曾養性の攻撃で殺され開城した。曾養性はさらに浙江へ進出し、平陽総兵蔡朝佐が呼応。温州では総兵祖弘勲が養性と通じ、抗戦を主張した温処道陳丹赤・永嘉知県馬玠を斬殺して降伏、温州は陥落した(陳丹赤・馬玠は後に清朝から追贈・祠廟建立の栄誉を受けた)。養性はさらに黄巌へ進み、阿爾泰も呼応。台州方面では清軍の富喇塔らと一進一退の攻防が続いた。
江西・仙霞関方面の攻防
耿継善らは江西へ出て広信・徽州を陥れたが、徽州で暴虐を働いた羅尚之は民の反撃で逃走した。仙霞関では耿継美・江元勲が清の追討軍を退けたのち、逆に清の康親王らに押し返され、精忠配下の馬九玉と江元勲の不和も重なり戦線は膠着。精忠は劉炎を通じて鄭経を「烏合の小勢力」と侮り、通交を厳禁した。
鄭経の同安・泉州攻略
交渉を絶たれた鄭経は柯平を派遣して抗議させたが拒絶されたため、馮錫範・劉国軒・何祐らに同安を攻めさせた。守将の華尚蘭は降伏し、同安城守張学堯や施鳳・施斉(王世澤と改名)らも次々に鄭経へ帰順。鄭経は各将に官職を与え、思明州(同安・海澄)を設置して統治体制を整えた。
王進功の泉州脱出
精忠は泉州提督王進功を福州に留め置き、その隙に泉州を奪おうと図る。進功はこれを察知し、密書で夫人と子の藩錫に自衛を指示。夫人は総領王如虎や五営の諸将を語らって備えた。精忠は王進(別人)を興化に配して泉州奪取を命じ、賴玉らと共謀させたが、夫人側は機先を制して賴玉を殺害し、王進の軍を撃退。王進は夜陰に紛れて省城へ逃げ帰った。泉州の諸将は鄭経への帰順を決め、監生の呉公鴻を廈門へ遣わして投降を申し出た。