臺灣外紀施提督、両疏で進剿を説く/王巡撫、遺疏で開界を説く(卷十四 施提督兩疏進剿 王巡撫遺疏開界)

孔元章の招撫

  • 康熙六年正月、河南の総兵孔元章が臺灣招撫を願い出て許可される。五月、福建に至り経へ招撫の意を伝えるが、経は「臺灣は中国の版図外」として朝鮮の先例(薙髪せず臣礼のみ)を主張し、応じない。

施琅の進剿上疏(第一疏)

  • 招撫不調に憤った水師提督施琅は、臺灣討伐を強く上奏する。要旨は次の通り。
  • 臺灣は肥沃で交易も盛んであり、放置すれば年月とともに勢力を増す危険がある。
  • 現有の水陸兵から精鋭二万を選抜し、澎湖をまず攻略して臺灣の喉元を扼すべきである。
  • 船舶・器材の新造費用は僅少であり、既存の修繕予算内で賄える。
  • 招撫と武力を併用し、澎湖を得れば大半の戦果を得たに等しく、臺灣側が降伏すれば無血で決着する。
  • 遠征は風向き次第で時期を定めがたいが、準備さえ整えば一挙に平定できる。
  • 十月、孔元章は方針が定まらぬまま帰京し、招撫工作は中止となる。十一月、施琅の「討剿疏」が改めて奏上される。

施琅の進剿上疏(第二疏)と入京

  • 康熙七年正月、朝廷は施琅を上京させ親しく意見を聞くこととし、鄭鴻駿・鄭纘緒・周全斌・何義ら投降者は北京へ召還、他の諸将は各省に分散して屯田させる方針が示される。
  • 施琅は上京を前に、さらに詳細な意見を密奏する。臺灣は鄭氏三代にわたり勢力を蓄えつつあり、放置すれば後患となる。現地の兵は疲弊しており、澎湖を扼して臺灣を分断・孤立させる戦術、投降兵・現地水夫の活用による経費節減案などを詳述する。
  • 四月、施琅は上京し内大臣に任じられるが、水師提督の職は廃止され、戦船もすべて焼却される。海澄には総兵一名(馬化騏)が置かれるのみとなる。

鍾瑞の反乱未遂

  • 六月、水師の遊撃鍾瑞(かつて郭義・蔡祿とともに投降した人物)が施琅の上京・水師廃止に乗じ、海澄を襲おうと江勝を通じて経に内応を求める。経は顔望忠を派遣して呼応させるが、計画は清の陸路提督王進功に漏れ鎮圧される。鍾瑞は単身脱出し、臺灣へ亡命して援剿後鎮に任じられる。清側は事実を隠し、鍾瑞は「海賊討伐で戦死した」と報告される。

王来任の遺疏

  • 広東巡撫王来任は遷界による民の困窮を憂い、重病の床で長文の遺疏を残す。
  • 広東の兵は過剰であり、財政負担が大きい割に実効がない。
  • 遷界による広東の境界をただちに広げ、民を旧地に帰して漁業・製塩を再開させるべきである。
  • 香山の橫石磯における通行制限を撤廃し、住民の生業を保障すべきである。
  • 王は上疏を残して没する。

遷界緩和への転換

  • 王来任の遺疏と李之芳の諫言に朝廷は心を動かされ、都統チンテンらを現地に派遣して勘察させる。両広総督周有徳は現地を巡り、遷界の民が沿道で香を焚いて跪き感謝する様を見て、界外の耕作制限を緩め開墾を許可する。
  • 周有徳は「展界設防」を上奏し、遷民が早期の帰郷を望む切実な声を伝える。朝廷はこれを許可し、水師の一部と饒平鎮の兵も削減される。