臺灣外紀煤山に登り明の命運尽く/燕都を定め我が朝が統一す(卷四 登煤山明祚攸終 定燕都我朝一統)

流賊の跳梁と官軍の敗退

崇禎十三年、張獻忠・羅汝才ら流賊が湖南・湖北一帯で暴れ回り、官軍はたびたび討伐しても根絶できず、降伏した賊も再び叛くという悪循環に陥っていた。参軍陳璸は温如微・周鳳岐らと防衛にあたるが、温如微は戦わずして常武を捨てて逃げ、陳璸は孤軍で奮戦するも大敗し、最後は捕らえられて張献忠に降伏を拒み惨殺される。周鳳岐も同様に殺された。流賊は各地に潜伏工作員を放って情報戦を展開し、蜀方面にも侵入するなど勢いは衰えなかった。崇禎帝は臣下に将才の推挙を命じる。

鄭芝龍、南澳副総兵に昇進

このころ、芝龍配下の芝鵬が朝廷への推挙状を携えて上京し、賄賂を用いて有力者に働きかけた結果、芝龍は南澳副総兵に任じられ、海疆の鎮撫を任される。

オランダの再来と台湾占拠

崇禎十四年、オランダのプッツマンス(郎必即哩哥)が再度船団を率いて来襲するが芝龍に撃退される。国王の弟揆一王が雪辱を期して十五隻の夾板船を率いて出撃し、たまたま台湾(鯤身・七鯤身)に漂着する。現地で通事の何斌と出会い、台湾には統治者がいないことを知った揆一王はこの地に安平鎮の城を築いて拠点とし、赤嵌にも小城を建てる。港の要所には旧船をわざと沈めて航路を制限するなど、防備を固めて台湾を実効支配する。

鄭森の受験と明朝の乱れ

崇禎十五年八月、鄭森(後の鄭成功)は福建郷試を受ける。この頃の明朝は文武の党争と賄賂政治により統治が乱れ、四方に盗賊が蜂起する状況にあった。

李自成の台頭と崇禎帝の苦境

崇禎十六年、李自成は同僚の賀一龍・羅汝才を謀殺してその軍勢を吸収し、西安を「長安府」と称して勢力を拡大する。崇禎十七年正月、李自成は帝を称し国号を大順と定め、大同・太原方面へと兵を進める。巡撫衛景瑗、蔡懋德らは各地で抗戦するも次々と敗死する。

周遇吉の奮戦

代州の鎮将周遇吉は寧武関で寡兵ながら勇戦し、一時は賊軍を撃退するが、援軍が来ないまま三月、ついに力尽きて捕らえられ、降伏を拒んで殺される。妻の白氏も殉節した。李自成すら「守将が皆周遇吉のようであれば」と嘆いたという。

崇禎帝、煤山に死す

李自成軍が北京に迫るなか、崇禎帝は南遷や太子撫軍の提案を退け、社稷に殉ずる決意を示す。群臣は策なく、ついに城外三大営も潰滅、賊軍は彰義門から入城する。帝は皇太后・皇后の自縊を知り、悲嘆の中で自ら公主を斬りつけ、万寿山(煤山)で「臣下が朕を誤らせた」との遺書を残して自縊する。太監王承恩もこれに殉じた。

北京陥落後の混乱

北京は陥落し、李自成は入城して受朝賀を受ける。忠臣李国楨は帝の柩前で慟哭し、条件を付して降伏、帝の礼をもって崇禎帝を葬らせたのち自殺する。李自成は財貨を強要し、戸部主事范方は拒んで斬られる。また呉三桂の父呉襄に手紙を書かせ、山海関の呉三桂に投降を促す。

呉三桂、清に援軍を求める

呉三桂は当初帰順を検討するが、李自成が父の一族を皆殺しにしたことを知って激怒、単身遼東へ赴き清の摂政王らに援軍を求める。清軍は呉三桂と合流し、一片石の戦いで李自成配下の唐通・李巖らを撃破する。李自成は北京を放棄して西へ退却、清軍が入城して秩序を回復する。

清朝の成立と江南の動揺

呉三桂は追撃してさらに李自成軍を打ち破る。五月、清の世祖(順治帝)が北京で即位し、国号を大清、元号を順治とする。呉三桂は平西王に、洪承疇は江南招撫の経略に任じられる。一方、江南では帝・后の死を知った諸臣が、皇族の中から福王を擁立することで一致し、弘光帝として即位させる。

弘光政権の内紛

弘光政権では馬士英が実権を握り、阮大鋮を登用したことに高弘図・姜曰廣ら清流派が反発、崇禎帝の諡号をめぐる論争なども起こる。史可法は淮揚の督師として出陣するが、清の摂政王からの降伏勧告の書簡に対し、大義名分を説いて拒否する返書を送る。九月、鄭芝龍は「南安伯」に封じられる。

高傑の横死(睢州の変)

弘光政権配下の四鎮のうち、高傑と黄得功は互いに反目していたが、史可法らの仲裁でひとまず和解する。しかし順治二年正月、高傑は総兵許定国に招かれた酒席で謀殺され、その軍は清に降る。

左良玉の反乱と揚州陥落

左良玉は馬士英の専横を弾劾する檄文を発して兵を東に進めるが、まもなく病死し、その子夢庚も黄得功に敗れる。同じ頃、清の豫王軍は南下して揚州を攻め、史可法は奮戦するも謀略にはまり、ついに自刃する(揚州の惨劇として知られる)。

弘光帝の逃亡と南京陥落

弘光帝は江南の防備が崩れる中、南京を捨てて逃走する。黄得功は帝を守ろうとするが、清に降った劉良佐の軍に喉を射られ、なお賊を討たんと自刎して果てる。弘光帝はついに捕らえられ、清の豫王の前で先帝への不忠を難詰されて答えられなかった。

浙江の平定と魯王監国

清軍はさらに浙江へ進み、馬士英は太后を奉じて逃げるが各地で弾劾される。潞王は抗戦を諦め杭州で降伏する。しかし紹興では鄭遵謙・張国維らが魯王(以海)を監国として迎え、方国安・王之仁らを配して清軍と対峙し、抗戦の体制を整える。