臺灣外紀旧鎮に赴き芝龍が帰順す/赤湖の戦いで劉香が落命す(卷三 往舊鎮芝龍就撫 戰赤湖劉香殞命)

俞咨皐の敗走と弾劾

崇禎元年、俞咨皐は廈門から芝龍軍に大敗し、廈門の住民は逃げ惑う事態となる。工科給事中顏繼祖は俞咨皐を痛烈に弾劾する上奏を行い、招撫政策の失敗、私利を図ったこと、副将陳希范の酒色に溺れた失態、部下洪應鬥・張選舉の壮絶な戦死などを縷々論じ、咨皐と希范の処罰を求める。結果、俞咨皐は解任され、陳希范も処分を待つ身となる(後に二人とも斬られる)。以後、芝龍は沿海を意のままに横行し、誰も手を出せなくなる。

熊文燦、招安を再検討

新任巡撫熊文燦は泉州太守王猷の建言――芝龍は勝っても深追いせず、捕らえた敵将も殺さぬなど、帰順の意思をにじませている――を受け、巡道鄧良知に招安の可否を検討させる。かつて芝龍を捕らえながら丁重に扱われた盧毓英を使者に立てることになり、毓英は「今度こそ官職を与えねば芝龍の心はつかめない」と進言する。

盧毓英の交渉と芝龍の帰順

毓英は王猷・鄧良知と協議のうえ舊鎮に赴き、芝龍に「海外へ退いて功を立てれば正式に官爵を与える」との条件を伝える。芝龍はこれを受け入れ、九月、金銀幣帛を携えて泉州に降伏する使者を送る。熊文燦はこれを喜び、「義士鄭芝龍、鄭一官(芝龍のかつての名)を討ち取る功あり」との名目で、芝龍を海防遊撃に任じ、盧毓英を監督としてその働きを監視させることとした。

李魁奇の討伐

芝龍はまず、かつての盟友陳衷紀らを併呑して勢力を伸ばしていた海賊李魁奇の討伐に乗り出す。崇禎二年四月、遼羅にて激戦の末、陳秀・陳霸らが李魁奇を討ち取り、芝龍軍は大勝する。その後、楊六・楊七を酒洲港で誅殺し、褚綵老も南日で滅ぼすなど、次々と海賊を平定し朝廷から高く評価される。

日本から妻子を迎える

崇禎三年、芝龍はかつて日本に残した妻翁氏と子(後の鄭成功)を思い、芝燕を日本へ遣わす。日本の国王は先の顏思齊一党の企ての一件以来、唐人への警戒を強めており、当初婦人の渡航は前例なしと拒む。芝龍は威容を示す使者を再度送り、国王は協議のすえ、妻は残すが子だけは帰すことで決着する。九月、芝燕・芝鶚は少年(森、字大木)を連れて安海に帰る。森は聡明で学問を好み、常に東(日本)を望んで母を偲んだという。叔父鄭鴻達に才を愛でられ、相人にも将来を嘱望される逸話が伝えられる。

劉香老との抗争

崇禎六年、海賊劉香老(劉香)が小埕を襲うが芝龍に撃退され広東へ逃れる。崇禎七年、両広総督に昇進した熊文燦は劉香に招安の使者を送るが、逆に捕らえられてしまう。崇禎八年、文燦と福建巡撫鄒維璉は芝龍に劉香討伐を命じ、芝龍は船団を三隊に編成して出撃する。

赤湖の決戦、劉香・芝虎の相討ち

田尾洋での前哨戦の後、両軍は赤湖沖で夜襲の応酬となる。芝龍側は事前に察知して備え、激戦の末、火計により敵将李虎三の船を炎上させる。芝虎(芝龍の弟)は劉香の船に斬り込むが、火が回るなかで脱出できず、劉香と刺し違えて共に焼死する。芝豹・芝彪はなおも敵船を撃破して勝利を収め、捕らえられていた官吏や拉致された婦女を救出する。芝龍は弟芝虎の死を深く悲しみ、遺体の捜索と法要を営んだのち凱旋する。この勝利により沿海の海賊は鳴りを潜め、芝龍の威名はさらに高まった。

鄭森の学業とオランダ船との戦い

崇禎十一年、森(鄭成功)は南安県の学生となる。崇禎十二年、オランダの将ハンス・プッツマンス(郎必即哩哥)が大型の夾板船九隻を率いて閩浙沿海を侵す。すでに盧毓英は世を去っており、芝龍自ら芝豹・芝彪らを指揮して迎撃するが、当初は夾板船の堅牢さと火砲の威力に苦戦する。芝龍は小舟による火攻めの策を献じ、水練の達者を選んで夜襲を敢行、オランダ船五隻を焼き払って敵を敗走させる。