臺灣外紀蔡善継、海に出て招安す/盧毓英、陸鵝で捕らわる(卷二 蔡善繼出海招安 盧毓英陸鵝被獲)
芝龍、金廈へ出撃
天啓六年二月、鄭芝龍は諸弟と協議し、戦船・快哨を率いて金門・廈門方面へ出撃し、糧餉を得ることを決める。杲卿・衷紀に命じて船隊を編成させ、先鋒・援勦・中軍・護衛・遊哨・監督などの部署を細かく定め、三月三日に出港する。まもなく金門・廈門を侵し、四月末には広東の靖海・甲子にまで及んだ。
沿海の疲弊と招安の下命
当時は太平が続き、各衛所の武官は世襲の閑職にあり実戦の備えがなかったため、芝龍の船団は各地で意のままに略奪した。ただし婦女への乱暴や放火・田畑の荒らしは禁じるなど一定の規律は保たれていた。芝龍が幼少時に石を投げて泉州太守蔡善繼の帽子に当てながら咎められなかった縁があることから、朝廷は善繼を泉州巡海道に起用し、旗鼓黄昌奇を遣わして芝龍の招安に当たらせる。
蔡善繼の招安と芝龍の帰順
昌奇は芝龍の船を訪ね、幼少時の逸話を語って説得する。善繼の書状には、悪事から足を洗い良民として安穏に暮らすよう諭す言葉が記されていた。芝龍はこれに感激し、諸頭領に諮る。陳衷紀は、いったん台湾へ戻って様子を見ることを提案し、芝龍もこれを了承、衷紀ら十三名は船を分けて台湾へ帰した。芝龍自身は八百余の部下を率いて泉州港に入り、蔡善繼に降伏の礼をとった。善繼は温かく諭し、上申して安插の手配を約束した。
再び海へ
ところが巡撫朱欽相が病臥したため手続きが滞り、ようやく回復した巡撫は芝龍の船・武器を接収するよう命じる。芝虎・芝豹はこれを機に、正式な官職も与えられぬまま武装解除されては後で立場を失うと芝龍に説き、芝龍も思い直して三更に船を出し、再び海上へ逃れる。善繼は激怒し防備を命じるが、後任巡撫の着任も遅れて追討は進まず、芝龍は八月、広東海豊の嵌頭村や甲子・靖海の両所を攻めた。
洪先春との攻防
天啓七年正月、芝龍は福建に戻り漳浦の舊鎮に集結する。巡撫朱之馮は都司洪先春に許心素・陳文廉らと合同で討伐させる。両軍は将軍澳で激戦となるが、潮流の変化で決着がつかず、洪先春はいったん舊鎮に退く。芝豹は「郷勇に扮して上陸し、水陸から挟撃する」計略を献じ、これが成功して洪先春軍は水陸から攻められ潰走する。
盧毓英の来歴
洪先春は金門に逃れ遊撃盧毓英を頼る。毓英はかつて総兵戚継光の下で興化府奪還戦に従軍し、夜陰に乗じて城壁をよじ登り、火計をもって倭寇を大混乱に陥れる大功を立てた武将であった。
盧毓英の敗北と捕縛
巡撫の命を受けた毓英は先春と合流し出撃する。芝龍は敵をあなどらせる作戦で船数を少なく見せて誘い込み、芝虎らの伏兵で挟撃する。激戦の末、毓英は矢傷を負いながらも力戦するが、ついに芝虎に捕らえられる。
芝龍、毓英を礼遇して放つ
芝龍は毓英に対して丁重に礼を尽くし、招安を望みながらも報われなかった自らの事情を語る。毓英は芝龍の器量に感じ入り、無事解放されて廈門に帰り、都督俞咨皐に事の次第を報告、芝龍の招安を進言する。泉州の太守王猷もこれに理解を示すが、朱之馮の元には「盧遊撃、敗れて捕らえられ放たれる」という不名誉な報告が先に届いていた。
馬勝・楊世爵の敗北
俞咨皐は千戸馬勝・百戸楊世爵に船二十隻を与えて討伐に向かわせる。芝龍方の間者が漁夫に化けて敵情を探り、指揮官の名まで聞き出す。芝虎は自ら討伐を志願し、芝豹と共に出撃。激戦の末、火計により楊世爵・馬勝の船を焼き沈め、大勝を収める。
陳希范の敗走
続いて副総兵陳希范が討伐に向かうが、芝龍方はこれを容易く撃破し、陳希范は潮流に乗じて逃走、味方の一部は水に投じて死ぬなど大損害を被る。
俞咨皐の大規模討伐と芝龍の勝利
楊・馬両将の戦死を知った俞咨皐は諸衛所から船を集めて自ら大船団を率い出撃する。芝龍は事前に間者からの情報を得て、王飛熊・林盛・李夢鬥ら手練れの敵将を狙い撃つよう部署を定める。激戦の末、俞咨皐軍は指揮系統が乱れて総崩れとなり、芝龍軍は追撃してさらに数隻を撃破、日没まで戦って勝利を収めた。