臺灣外紀唐王、福州で監国を仮称す/黄道周、南京で節に殉ず(卷五 唐監國福州假號 黃道周南京盡節)

唐王、福州に監国する

清軍が杭州に迫ると、黄道周ら多くの文臣が福建へ逃れる。折しも河南から避難してきた唐王聿鍵を鄭鴻逵・鄭彩が擁護して福建入りさせ、巡撫張肯堂・黄道周・鄭芝龍らの議により、唐王を監国に立てることとなる。

隆武帝の即位

群臣は速やかな即位を唐王に迫り、六月十五日、福州で即位して元号を隆武と定める。黄道周・何楷ら多くの文臣が入閣し、鄭芝龍は平虜侯、鄭鴻逵は定虜侯、鄭彩は永勝伯に封じられる。隆武帝は自ら政務に精励し、二十万の兵を諸関に配して守りを固める。一方、浙東の魯王監国政権とは互いに正統性を主張し合い、微妙な緊張関係が続く。

芝龍と黄道周の班位争い

朝議の場で、鄭芝龍が武班の首座に立ったことに何楷・黄道周が異を唱え、朝廷内で文武の対立が表面化する。以後、文臣と武臣の不和は深まり、隆武政権の指揮系統に亀裂が生じていく。

陳謙処刑事件

魯王の使者陳謙が隆武帝への上書で臣礼を欠いたとして投獄され、芝龍の助命嘆願も及ばぬまま処刑される。この一件は鄭芝龍と魯王側との関係をさらに悪化させた。

鄭成功、国姓を賜る

鄭鴻逵に続き、芝龍も子の森を隆武帝に謁見させる。帝はその才を愛でて「朱」姓と「成功」の名を賜り、御営中軍都督に任じる。以後、世人は彼を「国姓爺」と呼ぶようになる。同年十月、日本国王は芝龍の威勢を憚り、成功の生母翁氏を厚遇して安平へ送り届けた。

黄道周の出師と壮絶な最期

鄭鴻逵・鄭彩が出師しながら糧餉を理由に進軍を渋る中、黄道周は自ら江南への出師を願い出て、門人多数を率いて出関する。糧餉に乏しく苦難の行軍が続くが、道周は各地で義勇を募りつつ婺源方面へ進撃する。しかし清軍の伏兵に遭って捕らえられ、断食して抗い、洪承疇の勧降にも屈せず、獄中で門人らと詩文を交わし節義を貫く(この間に詠んだ詩は、忠義と死生観を託した内容として伝えられる)。ついに南京で処刑され、門人蔡春溶・賴繼謹・趙士超・毛玉潔らも共に殉じた。

江上の攻防と魯王方の混乱

清の貝勒軍と魯王方の張国維・方国安らは銭塘江を挟んで対峙する。一時は魯王方が優勢に転じるが、方国安が清に内通して魯王を拉致しようと図り、諸将は総崩れとなる。魯王は辛くも逃れて舟山方面へ落ち延びる。

紹興・金華の陥落と忠臣たちの殉節

清軍が紹興に迫ると、督師余煌は入水して自尽し、陳函煇・王思任ら多くの官僚が殉節する。張国維も辞世の詩を残して自ら池に身を投げ、王之仁は一族を海に沈めたのち従容と清軍に投降を申し出て処刑される。金華では朱大典が自ら火を放って一族もろとも焼死するなど、各地で凄惨な抵抗と殉節が相次いだ。

仙霞関の陥落と芝龍の変心

清軍がついに仙霞関に迫ると、鄭芝龍配下の守将は密かに撤兵し、関は労せず陥落する。知府鄭為虹は屈せず抗戦して斬殺され、民は「将軍(芝龍を指す)百姓を愛せば、関門を拱手して差し出す」と皮肉る歌を残した。この裏では、洪承疇・黄熙胤が芝龍に「三省の王爵」を約束する密書を送っており、芝龍はこれに応じて投降を決意していた。

隆武帝の逃亡と最期

仙霞関失陥を知った隆武帝は江西へ逃れようとするが、清将李成棟の追撃を受ける。忠誠伯周之藩は身を挺して帝を守り、追手の前で自ら「われこそ隆武である」と偽って引き付け、壮絶に戦死する。しかし隆武帝と皇后はついに汀州で追いつかれ、殺害される。従臣の多くも捕らえられ、あるいは処刑された。

鄭芝龍、清に降る

鄭芝龍は清軍への帰順を決意するが、子の成功は「険阻を頼みに勢力を保つべきだ」と強く諫め、弟の鄭鴻逵も翻意を促す。しかし芝龍は聞き入れず、単身で清の貝勒に面会に赴く。成功は父に従わず金門へ退く。貝勒は芝龍を丁重に迎えて薙髪させ歓待するが、内々には芝龍を北京へ連行して勢力を骨抜きにする策を進め、まもなく芝龍は北京へ送られることとなる。

桂王(永暦帝)の即位と紹武政権との対立

隆武帝の訃報を受け、広西の瞿式耜・丁魁楚らは桂王由榔を擁立し、永暦と改元して肇慶に朝廷を開く。ほぼ同時に広州では蘇観生らが隆武帝の弟聿を擁立して紹武政権を樹立し、両勢力は互いに正統を主張して争う内紛状態に陥る。

鄭成功、挙兵する

金門にいた成功は隆武帝夫妻の死、そして父芝龍が清軍に連行されたとの報に接し、安平で軍民に喪服を着させて弔うとともに挙兵を決意する。「罪臣国姓成功勤王」を掲げ、家財を投じて兵を募り、諸将を任命して抗清の旗を掲げる。しかし金門・廈門など沿海の要地は既に叔父鄭鴻逵や鄭彩兄弟、魯王配下の諸将らが分割して押さえており、成功はわずかな安平の地を拠点に、鼓浪嶼や海澄・鎮海衛周辺を転々としながら情勢を見極めることとなる。