臺灣外紀肇慶府で桂王が僭位す/曾厝鞍で施郎が逃げ延びる(卷六 肇慶府桂王僭位 曾厝鞍施郎逃生)

隆武生存の誤報と成功の慎重論

  • 順治四年正月、路振飛・萬年英らは隆武帝が広東に逃れたとの誤情報を信じ、鄭成功に共に赴くよう促した。
  • 成功は「先帝はすでに汀州で難に遭われた。生きて広東に至れるはずがない」と冷静に判断しつつも、船と資金を与えて送り出した。
  • 一行は広東で紹武政権(隆武の弟)の擁立を知り、隆武ではないと悟って厦門へ引き返した。

清軍の安平襲撃と成功生母の死

  • 二月、清の韓代が満漢の兵を率いて安平を急襲。鄭芝豹・芝鵬らは戦わずに財貨と家族を船に移して城を捨てた。
  • 成功の生母翁氏は逃げることを拒み、剣で自害した。成功は号泣して喪服のまま軍を返し、母を弔って安平を確保した。

泉州をめぐる攻防

  • 四月以降、成功は鄭彩・楊耿らと合流し海澄や漳平・龍巖方面を攻めるが、清軍に撃退される場面もあった。
  • 各地で反清の動きと清側の鎮圧が交錯(徳化県の義民、宜春主朱議術の敗死など)。
  • 八月、成功は叔父の鄭鴻逵と合流し、南安の郷紳らの助けを得て泉州を包囲。提督趙国祚の軍を撃退し、内応工作や溜石寨攻略も進めるが、漳州から救援に来た王進の巧みな用兵(安平を衝くと見せかける奇策)により鴻逵が浮足立ち、包囲を解いて撤退した。

傅冠の殉節

  • 十一月、清に降ることを拒んだ傅冠は、南と西に向けて拝礼し、壁に絶命の詩を書き残して従容と刑を受けた。処刑を命じられた者は誰も手を下せず、最後に他家の家人が刀を振るった。その最期は多くの者の涙を誘ったという。

紹武政権の滅亡と永曆帝の擁立

  • 紹武(隆武の弟)は李成棟の急襲を受けて敗死。蘇観生は壁に詩を残して自ら首を吊った。
  • 広東総督佟養甲・李成棟がさらに進撃し、桂王(永曆帝)は瞿式耜らに支えられて桂林方面へ逃れた。丁魁楚は李成棟の招降を拒み戦死。桂林は焦璉らの奮戦でかろうじて保たれた。

成功の人材登用

  • 泉州攻略失敗後、成功は安平に戻り、盧若騰・葉翼雲・陳鼎ら文人を厚遇。甘煇・藍登・施郎ら武将を得て日夜訓練を行い、糧食を蓄えた。

同安の攻防と大虐殺

  • 順治五年五月、成功は同安を攻略。守将祁光秋・施郎(当時)は多勢に無勢と判断して開城前に脱出、成功が入城して民を安んじた。
  • 七月、清の佟鼐・李率泰・陳錦が奪回に来攻。守将の邱縉・林壮猷・金裕らは奮戦するも全員討死し、城は陥落。清軍は住民を含め大虐殺を行い、「同安血流溝」の讖言が的中したと伝えられる。

銅山での永曆帝奉戴と雲霄攻略

  • 八月、成功は銅山で船団を整備中、林察から桂王擁立の詳細を知り、香を焚いて南面拝礼し正朔を奉じることを決意。使者を広東へ送り上表した。
  • 同安陥落の報に急ぎ救援に向かうが間に合わず、遙拝して哀悼。その後漳浦の守将王起俸の投降を受け入れ、詔安の抵抗勢力を平定した。
  • 十月、永曆帝から威遠侯に封じられる。雲霄を攻略し、守将姚国泰を降して医治のうえ登用した。

広東義軍の壊滅

  • 陳子壮・陳邦彦らの広東義軍は内応の露見や兵力差により相次いで敗死。張家玉も東莞での挙兵に失敗し、一族もろとも壮絶な最期を遂げた。成功は虎門への援軍を試みたが間に合わず断念した。

李成棟の反正と永曆帝の肇慶行幸

  • 李成棟は妻張氏(陳子壮の妾であった)の言動をきっかけに清への反心を強め、佟養甲を謀殺して剪辮・反清を宣言、永曆帝を奉じた。江西の金声桓・王得仁も呼応。
  • 永曆帝は成棟の招きで肇慶に行幸。成棟は瞿式耜の起用を進言し、成功にも使者を送って連携恢復を呼びかけた。

潮州郝尚久の去就と諸方面の作戦

  • 順治六年、成功は郝尚久(元李成棟配下)に潮州通好を働きかけるが、尚久は去就を決めかね応じなかった。成功は周辺県を攻略しつつ機をうかがう。
  • 陳斌や張禮ら地元勢力の帰順を得て軍勢を拡大した。

順治七年の諸戦と将領の配置

  • 潮陽・揭陽方面を攻略し、施郎を左先鋒鎮、弟顕貴を右先鋒鎮などに任命。詔安の万礼(万姓の義軍)も帰順した。

潮州包囲と王邦俊の来援

  • 六月、成功は潮州を包囲し陳斌が広済橋を焼いて猛攻。郝尚久は漳州鎮王邦俊に救援を求め、邦俊は柯宸枢らの守る羅山嶺・盤陀嶺を破って進撃。成功は潮陽へ退いた。

鄭彩からの厦門接収

  • 八月、成功は施郎の献策(呂蒙の荊州奪取に倣う計)により、鄭彩(芝莞の従兄弟筋)を油断させて厦門を接収する計画を実行。中秋の夜、鄭彩を虎坑巌での宴席の帰路で暗殺し、部隊を無血で吸収した。鄭彩の兄鄭聯もこれに先立ち成功に会見中に謀殺された。
  • 鄭彩自身は後に全軍を成功に委ね、厚遇されて厦門で没した。

順治八年の諸戦と馬得功の厦門襲撃

  • 順治八年正月以降、成功は潮陽・恵州方面を転戦。
  • 三月、福建巡撫張学聖が隙をついて馬得功に厦門を急襲させる。芝莞は財宝を持って逃走、成功の妻董氏は毅然として位牌を守り抜いた。閣部曾櫻は自決した。
  • 鄭鴻逵は情に絆されて馬得功の脱出を助けたため、成功はこれを深く恨んだ。

芝莞の処刑と軍紀粛正

  • 成功は厦門防衛失態の責任を問い、叔父芝莞を隆武帝下賜の尚方剣で斬首。厳格な軍法運用を諸将に示し、士気を引き締めた。功なき者にも容赦なく罰を科した。

鴻逵の隠退と施郎の逃亡

  • 鴻逵は成功の威厳ある処断を見て権を返上し隠退。成功は諸鎮の配置を整え直した。
  • その後、施郎は部下曾徳の処刑をめぐり成功の命に逆らったとして拘束されるが脱走。弟顕貴・父大宣は処刑されたが、施郎自身は蘇茂らの助けで内地へ逃れ、後に清に投じることになる。

漳州・泉州方面の攻防と日本との通商

  • 成功は漳浦・磁灶などで清の王邦俊軍を破り、楊名高の援軍も撃退。漳浦を攻略し諸将を配置した。
  • 参軍馮澄世の献策により、日本(かつて成功の母の縁による誼)との通交を進め、銅・軍需品の調達を図る。呂宋・暹羅・交趾等との交易も拡大し、軍資を確保した。