宋史演義第八十五回 北伐を倡え師を喪い国を辱む/西陲に拠り乱を作し家を亡ぼす (倡北伐喪師辱國 據西陲作亂亡家)
楊皇后の立后と楊次山
新皇后には楊次山という「兄」がいたが、実の血縁ではなく同郷を名乗っただけの縁だった。楊氏は微賤の出で、母とともに徳寿宮の楽部に入り、聡明で歌舞に長け、宮中の妃嬪たちを凌ぐ美貌の持ち主だった。母が郷里へ帰った後も一人宮中に残り呉太后に仕えて寵愛され、寧宗に下賜された。寧宗はその才色を喜び婕妤から貴妃へと昇らせた。曹美人と后位を争ったが、韓侂冑の反対で詔が覆されるのを恐れ、寧宗に正式な詔と、あらかじめ楊次山を通じて朝堂に示す詔の二通を書かせておいた。侂冑が知った時にはすでに手遅れで、百官も冊立の儀を進めるほかなかった。
陳自強の栄達と韓侂冑への追従
冊后の礼が成ると群臣は昇進し、侂冑は太師に進んだ。謝深甫は自ら辞し、陳自強が右丞相、許及之が知枢密院事となった。自強は貪欲な人物で、都の大火で財産を失った際、侂冑をはじめ諸臣からの見舞金で以前より多くを得た。自強は侂冑を「恩主恩父」、蘇師旦を「叔」、堂吏史達祖を「兄」と呼ぶほど諂い、侂冑と裏で結託して朝政を私した。権勢に驕った侂冑は、ついに中原回復・金への北伐を企てるに至る。
金国の内情
金では世宗の没後、嗣主璟が酒色に溺れ朝政を顧みず、寵妃李師児と佞臣胥持国が権を握った。政治は乱れ、韃靼などの侵入や内訌が相次ぎ、民は疲弊していた。
韓侂冑、北伐を決意
侂冑はこれを好機とみて、蘇師旦の勧めもあり軍資を集め兵馬・戦艦を整えた。安豐守臣厲仲方や浙東安撫使辛棄疾らも金の弱体を説き、侂冑は開戦を決意。韓世忠に続き岳飛を鄂王に追封し、秦檜の官爵を奪って諡を「繆醜」と改めるなど、士気を鼓舞する手を打った。許及之は要地の守将就任を固辞して失脚し、代わって陳自強の献策で国用司が新設され、費士寅・張巖らとともに東南の財を絞り取った。年号も嘉泰から開禧と改められた。
華岳の諫言と開戦準備
武学生華岳は開戦に反対し侂冑らの処刑を求める上書をしたが、逆に投獄・流罪となった。侂冑は皇甫斌・郭倪らを要職につけ、寧宗から軍政を一任される権限を得て、蘇師旦を腹心として重用した。
金側の対応
金主璟は宋の動きを察知し、完顏匡の進言もあって防備を固めた。宋の使者陳景俊に対し金主は盟約遵守を釘刺したが、陳自強はこれを黙殺させた。続く金使趙之傑への非礼をきっかけに緊張が高まり、侂冑は邱崈を江淮宣撫使に任じたが、崈は軽々しい開戦を諫めて固辞した。
開禧北伐の戦況
開禧二年、皇甫斌は唐州へ、郭倪は泗州へ進軍。四川では程松が宣撫使、吳曦(吳璘の孫)が副将となったが、曦は密かに異心を抱き兵権を掌握していた。侂冑は李璧に北伐の詔を起草させ、正式に金へ宣戦。緒戦は宋軍が各地で金軍に大敗し、郭倬・皇甫斌・王大節らは総崩れとなった。事態を憂慮した侂冑は邱崈を再登用して両淮の防衛にあたらせ、敗将らを処分し、蘇師旦も罷免・流罪とした。
金の九道南侵
まもなく金は僕散揆を総帥として九方面から南侵を開始した。楚州・光化・棗陽・襄陽・随州などが次々陥落し、江淮一帯は大混乱に陥った。邱崈は淮南死守を宣言して防戦。畢再遇は六合で金軍を奇策(張り子の傘で矢を集め、集めた矢で反撃する「借箭」の計)により撃退するなど各地で抗戦が続いた。
講和交渉
僕散揆は使者を通じて邱崈に接近し、韓琦の子孫元靚を介して和議を打診。侂冑も講和を望み、崈が交渉を担った。金側は「称臣・割地・首謀者の引き渡し」を条件としたが、宋側は蘇師旦らの処分を理由に拒否。交渉は一進一退のまま停戦にこぎつけた。
吳曦の叛逆
侂冑は吳曦にも進撃を促したが、曦は密かに金と通じ、姚巨源を介して蜀王封爵と引き換えに金へ降ることを約束していた。金軍が迫ると曦は兵を退かせ、階・成・和・鳳の四州と誥敕を金に差し出し、蜀王に封じられた。曦は「東南はすでに失陥した」という虚言を部下に説いて叛意を正当化し、抗議する部下を退けて金への投降を強行。程松は興元から慌てて逃走し、曦から届いた黄金を受け取ってようやく安堵する体たらくだった。
吳曦の僭位
邱崈は曦の叛逆を朝廷に報告し、韓侂冑の名を和議文書から除くよう求めたが、逆に職を解かれた。曦はついに自ら蜀王を称し、開禧三年を「元年」と改元、興州を行宮として百官を置き、成都に宮殿の造営まで命じた。伯母趙氏や叔母劉氏は使者を罵り拒絶し、楊震仲や劉当可・李大全・郭靖ら多くの士人が曦への出仕を拒んで自殺・逃亡・隠棲するなど、民心は離反した。
誅殺と平定
知成都府楊輔は事態を憂いたが動けず失脚。楊巨源は曦配下の将らと密謀し、安丙・李好義らと結んで挙義を計画。密詔を起草した後、好義は七十四人を率いて偽宮に突入し、李貴らが吳曦を斬殺した。曦の僭位はわずか四十一日で終わった。安丙は乱後の四川を鎮め、曦の首級と金からの冊印を朝廷へ送った。
評語
評者は、光宗・寧宗期の禍は和議偏重から開戦偏重へと転じただけで、いずれも佞臣が事を専断した結果だと論じる。秦檜と韓侂冑はそれぞれ和・戦を主張したが、君主を意のままに操ろうとした私心は同じであるとし、檜の時代は戦い得たのに和を選び、侂冑の時代は戦うべきでないのに戦を選んだと対比する。蘇師旦や程松のような卑劣な人物に軍事を委ねれば敗れるのは必然であり、吳曦の叛逆も劉豫に遠く及ばぬ規模で、わずか数十人の義挙であっけなく鎮圧されたことを「身の程知らず」と評す。時代が下るほど大忠も大奸も小粒になった諺(「一蟹不如一蟹」)を引き、秦檜が天寿を全うした一方で侂冑は誅殺され、劉豫が処罰を免れた一方で吳曦は誅されたと結ぶ。