宋史演義第八十四回 生辰を賀し尚書狗竇に鑽る/夜宴に侍り艶后龍顔に媚ぶ (賀生辰尚書鑽狗竇 侍夜宴豔后媚龍顏)
偽学の禁の始まり
- 趙汝愚の死後、京鏜が実権を握り、何澹・劉徳秀・胡紘らと結んで「偽学」の名目で道学派・韓侂冑批判者を一括して排斥する動きを主導する。呉太皇太后の諫めで一時緩和されるも、京鏜らの弾圧は続いた。
朱熹への迫害
- 朱熹は趙汝愚の冤罪を訴える上奏を用意するが、占いの結果もあって思いとどまり撤回する。胡紘の私怨から沈継祖が誣告を仕立て、朱熹は官職を剥奪され、門人蔡元定は道州に流された。蔡元定は動じず師の教えを守りつつ配所で病没した。
偽学禁の拡大と党籍
- 呉太皇太后の崩御を機に「偽学」を掲げる者五十九名の党籍が作成され、趙汝愚・留正・朱熹ら旧臣が一斉に処分された。経書の講義まで禁じられるほど弾圧は徹底した。
韓侂冑への阿諛の風潮
- 韓侂冑は少師・平原郡王に至るまで権勢を強め、吏部尚書許及之が誕生日祝いに門前払いされながら下男用の門から這って入り媚びへつらった逸話(「由竇尚書」)や、趙師が真珠細工や北珠冠を献じて媚びを買った逸話(「屈膝執政」「工部侍郎の犬の鳴き真似」)が語られ、当時の醜態が風刺される。
朱熹の死と学問の系譜
- 偽学の禁が続く中、朱熹は郷里で講学を続けたまま慶元三年に没した(享年七十一)。多数の著作と門人が紹介され、道統を継ぐ大儒として位置づけられる。陸九淵ら陸氏兄弟の学説との対比も語られる(のちに党禁が解けて朱熹らは追贈された)。
太上皇后・太上皇の相次ぐ死
- 太上皇后李氏、続いて太上皇光宗が相次いで世を去り、皇后韓氏も没する。韓氏の父同卿は控えめな人物として描かれる。
呂祖泰の直諫と処罰
- 処士呂祖泰が韓侂冑誅殺を求める上書をするが、かえって杖罪・流刑に処せられる。周必大も連座して官位を落とされる一方、韓侂冑はさらに太傅に加封される。
楊貴妃、皇后への策略
- 継后を巡り楊貴妃と曹美人が競う中、楊貴妃は策を用いて曹美人を出し抜き、寧宗を自室に誘って皇后に立てる旨の御筆を得ることに成功する。
評語
- 許及之・趙師・程松らの阿諛ぶりを「官場現形記」のようだと評し、楊貴妃・曹美人の後宮争いを「宮闈奪寵録」に喩える。
- 偽学の禁と韓侂冑の専横をあわせて、女子も小人も阿諛を免れ得ないものだが、鬚眉(男子)でありながら媚びへつらう者はさらに恥ずべきだと厳しく批判する。