宋史演義第八十六回 史弥遠、計を定め奸を除く/鉄木真、尊を称し武を耀かす (史彌遠定計除奸 鐵木真稱尊耀武)
吳曦誅殺の後始末と怪異
吳曦の首級は都に届けられ廟社に献じられた後、三日間さらされた。妻子は誅され、家族は嶺南へ流された。曦が少年の頃、父吳挺に叛心を疑われて叱責され炉火に蹴り込まれ顔に痕が残ったこと、蜀での夜、月に自分そっくりの騎馬の人影を見て「自分は貴人になる前兆」と思い込んだこと、従事郎銭鞏之が神託めいた夢で「安子文(安丙)に政事を任せよ」と告げられ、曦に伝えて安丙を重用させたことなど、曦の運命を暗示する逸話が語られる。結局その安丙によって誅されたのは、まさに妖夢の的中であった。
関外四州の回復と内紛
金主は朮虎高琪に冊命を持たせ曦に届けようとしたが、着く前に曦は誅されていた。楊巨源・李好義は安丙に関外四州の奪還を進言し、諸将を分遣して西和州・成州・和州・鳳州・大散関を次々に回復した。しかし安丙と楊輔の不和や、王喜(曦の旧将)による妨害で好義の秦隴進取は頓挫し、金将朮虎高琪に大散関を奪い返され、孫忠銳は敗走。安丙は密かに楊巨源らに命じて忠銳を誘殺させたが、巨源はこの功にも恩賞を与えられず不満を募らせた。
王喜の専横と李好義の毒殺
王喜は曦の旧将で貪婪凶暴、誅曦の詔を拝さず偽宮を掠奪し曦の姫妾まで奪う不法を働いたが、安丙は黙認した。喜は巨源と好義を恨み、腹心劉昌国を送り込んで好義に近づけ、酒宴の席で毒殺させた。事後、昌国は好義の亡霊に苦しめられ悪性の腫物を病んで死んだという顛末が語られる。
楊巨源の非業の死
好義の死後、巨源は安丙に王喜の罪を訴えたが、丙は喜を移任させるのみで罪を問わなかった。巨源の不満の書状を得た丙は逆に巨源を疑うようになり、そこへ王喜が「巨源が謀反を企てている」と讒言。丙は巨源配下の車彦威・米福を冤罪で処刑させ、さらに彭輅に巨源を捕らえさせた。護送の途中、樊世顯によって巨源は斬首され、「懼罪自剄」と偽装された。蜀人は皆その冤罪を悼み、後に朝廷は巨源に廟を建て忠愍の諡を、好義にも忠壮の諡を贈った。
金との和議交渉
金の僕散揆は下蔡に退いて講和を待ったが、首謀者の引き渡しを要求して交渉は難航。揆の病没後、完顏宗浩が後任となるも交渉は進まなかった。韓侂冑は方信孺を使者に立てたが、金将紇石烈子仁は信孺を投獄・脅迫し、金は「割地・称臣・首謀者の首級・犒軍銀」等の五条件を突きつけた。信孺が最後の条件(侂冑自身の首級)を明かすと侂冑は激怒し、信孺を左遷。両淮の防備を強化し再戦を図った。
史彌遠、誅奸を決意
このとき台頭したのが史浩の子、史彌遠である。彌遠はかねて侂冑の開戦に反対しており、密かに誅殺を寧宗に進言したが取り上げられなかった。楊皇后も侂冑を恨み、皇子榮王曮(燕王徳昭の九世孫、旧名与愿)を通じて寧宗に訴えさせたが、寧宗はなお迷った。楊后の強い進言でようやく寧宗は密かな調査を許した。
誅殺計画の実行
楊后は楊次山を通じて彌遠に指示を伝え、彌遠は錢象祖・衛涇・王居安・張鎡・李璧らと謀議を重ねた。計画が漏れかけた際、張鎡の「殺すしかない」との一言で、彌遠は殿前司の夏震に命じて侂冑暗殺を決行させることにした。侂冑は密告の書状を酔って読み飛ばし油断したまま朝へ向かい、玉津園で夏震らに拘束され、詔を読み上げられたところを鉄槌で撃殺された。
事後処理と論功行賞
彌遠らは事の成否を気にかけていたが、報告を受けて安堵。陳自強も罷免され、寧宗はしばらく事実を疑ったが、三日後にようやく侂冑の死を認め、財産を没収した。蘇師旦は誅殺、郭倪・鄧友龍・郭・張巖・許及之・葉適・薛叔似・皇甫斌ら関係者は流罪・降格となった。榮王曮は皇太子となり名を洵と改め、錢象祖が右丞相兼枢密使、衛涇・雷孝友が参知政事、彌遠が同知枢密院事などに任じられ、元号は嘉定と改められた。
侂冑の首級を金へ
金は依然として侂冑・蘇師旦の首級を要求。宋は臨安府で侂冑の棺を暴いて首級を取り出し、王枏に持たせて金都へ送った。金主はこれを応天門で受け取り、市中にさらした。和議は「伯父・姪の礼、歳幣三十万、犒軍銀三百万両、境界は現状維持」という条件で成立し、これが宋金第五次の和約となった。錢象祖・史彌遠がそれぞれ左右丞相となり、まもなく象祖は罷免、彌遠は服喪ののち復職して以後国政を専断するようになる。
金主永済の即位
嘉定元年、金主璟が世継ぎなく病没し、世宗の子衛王永済が擁立された。永済は帝位の安定のため、身重とされた妃たちの妊娠を「懐妊せず」と偽らせ、元妃李氏と承御賈氏を毒殺しながら病死と偽った。僕散端を右丞相に進めたが軍民の信望は薄かった。
モンゴルの台頭・鉄木真
このころ北方では蒙古部長鉄木真(後の元太祖チンギス・カン)が九斿白旗を掲げ「成吉思汗」を称していた。始祖乞顏以来の系譜、朵奔巴延の妻阿蘭郭斡が神人と交わって生まれた勃端察兒の子孫が蒙兀国を興したこと、鉄木真の父也速該が塔塔児部の首領を捕らえたことに因んで子に「鉄木真」と名付けたことなどが語られる。也速該の死後、母訶額崙に育てられた鉄木真は泰赤烏・蔑里吉・克烈・塔塔児・乃蛮の諸部を次々平定し、諸部族から推されて大汗(成吉思汗)に即位した。
西夏征服と対金強硬
鉄木真は西夏にも兵を進め、内紛で衰えていた西夏は李安全の代に降伏し、娘察合を献じて講和した。金への援軍要請が果たされなかったことを恨んだ安全は葭州を攻めたが撃退され、逆に蒙古に金討伐を焚きつけた。金主永済が即位の詔を送ると、鉄木真は「あのような凡愚が皇帝とは」と使者を唾棄して追い返し、秋、長子朮赤・次子察合台・三子窩闊台とともに大軍を率いて金へ進撃を開始した。
評語
評者は、史彌遠は本来大事を成せる器ではなく、誅殺計画は幾度も漏れかけたが、韓侂冑の悪業が極まっていたために天が彌遠らを助けたに過ぎないと論じる。侂冑の死後、彌遠がその功を独り占めして高官厚禄を得たこと、さらに侂冑・蘇師旦の首級を金に献じたことを厳しく批判する。侂冑は宋の罪臣であって金には関わりなく、刑賞は宋の国典であるのに、和議を急ぐあまり国威を辱めたと指摘。当時蒙古の勃興で金自身が北の脅威に追われ南侵の余裕などなかったのだから、理を尽くして交渉すればここまで屈する必要はなかったはずだとする。彌遠の「誅奸和親」の功が持て囃されたことで奸偽がますます蔓延り国が衰えていったと結び、鉄木真については武力のみで人を屈服させ仁義を語るところがない人物と評しつつ、その後継者たちが天下を統一した史実に触れ、元の事跡は本書では詳述しないと断っている。