宋史演義第七十九回 暴主を誅し遼陽に新君を立つ/前功を隳り符離驚きて潰変す (誅暴主遼陽立新君 隳前功符離驚潰變)
李顕忠の来歴
李顕忠はもと李世輔といい、綏德軍の出身。父・永奇とともに金に仕えていたが、宋への帰順を志し、金将・撤離喝を捕らえて宋へ献じようとするも失敗、家族三百口を金に殺される。西夏に逃れて延安経略使となり、後に延安が宋領に戻ると帰順を決意、夏将を捕らえ鉄鷂子軍を撃退して呉璘のもとへ投じる。高宗より「顕忠」の名を賜り都統制となるが、恢復策が秦檜に忌まれ一時失脚、檜の死後に復職する。
王権に代わる登用と京口防衛
完顔亮の南侵で王権が敗退すると、顕忠が代わって将となる。虞允文の要請で兵を分け京口防衛にあたる。劉錡は病重く朝廷に召還され、成閔・李顕忠・呉拱がそれぞれ淮東・淮西・湖北京西の招討使に任じられる。楊存中も京口守備に加わり、宋の水軍は金山を巡って威容を示す。
完顔亮の弑殺
瓜州に至った完顔亮は宋軍の備えに驚きつつも渡江を厳命し、逆らう将を杖罰、逃亡者は厳罰に処すなど軍中の恐怖と不満を煽る。将士は浙西都統制・耶律元宜のもとに密謀し、金の新帝(東京留守・完顔雍、烏禄)擁立に呼応して亮を討つことを決する。翌朝、元宜らは龍山寺の亮の陣営を急襲し、乱軍のなかで亮は矢を受けたのち絞殺される。李通ら側近や妃嬪も殺され、亮の遺体は焼かれて骨は灰にされる。亮の皇后徒単氏・皇子光英も殺害され、金軍は北へ撤退する。
完顔雍(世宗)の即位
完顔亮の南征中、将士の離反が相次ぎ、東京留守の完顔雍(仁孝で人望厚い)を新帝に推す動きが進む。雍は副留守・高存福を除いて即位、年号を大定と改め、亮の罪を数えて討伐を布告、父・訛里朵を睿宗と追尊、亮を海陵煬王に廃し、蕭玉・敬嗣暉らを退け、張浩を尚書令に留任させる。高忠建を使者として即位を宋に告げる。
高宗の帰還と孝宗への布石
高宗は建康に入り張浚らの出迎えを受ける。虞允文は高宗に「新主即位は恢復の好機」と主戦を説き、川陝宣諭使に任じられる。劉錡は病没し武穆と諡される。金使・高忠建との交渉では、陳康伯が対等の国交・境界改定を主張して押し切り、洪邁を賀登極使として金に送るが、金側の非礼な扱いに屈せず帰国する。
呉璘の西陲経略と魏勝の海州防衛
呉璘は漢中に出て商・虢を復し、大散関・徳順軍などを次々に奪還する。虞允文も陝西で連携し西方は好調に進む。一方、金軍は大軍で海州の魏勝を攻めるが、魏勝は寡兵で防戦し、張子蓋の援軍も加わって金軍を撃退する。
孝宗即位
金の南侵中、皇子・瑋(後の孝宗)は親征を願い出て高宗を動かす。高宗は年老いて譲位を決意し、陳康伯の進言で瑋を太子に立て名を眘と改めさせる。まもなく高宗は皇帝位を太子に譲り、太上皇として徳寿宮に退く。太子は固辞するも押し切られて即位し、これが孝宗である。
張浚の登用と史浩の掣肘
孝宗は張浚を重用し恢復を託すが、和議派の史浩が枢密院で掣肘する。虞允文の反対にもかかわらず史浩の進言により、呉璘はせっかく回復した秦隴十三州三軍からの撤兵を命じられ、金に再び奪われてしまう。
隆興の北伐と符離の潰走
孝宗は隆興と改元し、金からの領土要求書を機に張浚に主戦を命じる。李顕忠・邵宏淵がそれぞれ濠州・泗州から出撃し、靈壁・虹県を攻略、宿州も陥落させる大戦果を挙げる。しかし顕忠と宏淵は不和で、宏淵は功を妬み、犒賞の与え方でも対立、士卒の不満が募る。金の副元帥・紇石烈志寧の大軍が来襲すると、宏淵は退却論を唱え士気を削ぐ発言を繰り返し、ついに周宏ら諸将が次々と敵前逃亡する。顕忠は孤軍で防戦するも支えきれず、夜陰に紛れて符離まで撤退し、全軍が潰走する。
顕忠の敗戦報告
顕忠は盱眙で張浚に印綬を返上し処分を待つ。
評語
完顔亮の誅殺と完顔雍の即位は、宋にとって恢復の好機であった。高宗の内禅・孝宗の即位も英明の誉れ高く、陳康伯・張浚のような相帥、李顕忠・呉璘・王剛中・虞允文のような将才も揃っていた。しかし内には史浩、外には邵宏淵という掣肘する者があり、せっかく取り戻した西北十三州三軍も、靈壁・虹県・宿州の戦果も、結局は失われてしまった。忠と奸は並び立たず、正と邪は両立しない。奸邪が側にいては忠正の士も大功を成し得ない。西北の失策は史浩に、李顕忠と邵宏淵の不和による淮西の挫折は張浚の監督不行き届きに帰する。孝宗が全権を張浚に委ねながら両者の不和を事前に察知できなかったことが、恢復の機を永遠に断ってしまったのは惜しむべきことである。