宋史演義第七十八回 金主亮、道を分ちて寇を入る/虞允文、大いに敵軍を破る (金主亮分道入寇 虞允文大破敵軍)
欽宗崩御と対金強硬論
欽宗の訃報が臨安に届くと、左史黄中と宰相陳康伯は金使の反応を憂慮しつつも喪礼を優先し、金の要求を棚上げにする。金使の催促にも康伯は応じず、金使は不興のまま帰る。康伯は楊存中・趙密ら重臣を集めて軍議を開き、「和議か守りかではなく戦うべきだ」と主戦を唱え、存中も同意する。趙密と朱倬は態度を保留するが、康伯は君臣一致の覚悟を確認してから改めて上奏することとする。
開戦準備と金の南侵決定
康伯は内侍・張去為が用兵に反対し遷幸を勧めていることを知り、高宗に速やかな出兵と張去為誅殺を求める上奏を行う。楊存中も対策十策を献じ、成閔・呉璘・王剛中・劉錡らに諸方面の防備を命じる。一方、金主・完顔亮は宋・遼・西夏平定の野望に燃え、群臣の追従を受けて挙兵を決意する。西北では遼の残党が金の圧政に反発して蜂起し、招討使を殺して老和尚を擁立する動きも起こる。
徒単太后弑殺
完顔亮は僕散忽土を西征に送るが、徒単太后は遷都・南征に反対する本音を漏らす。これが侍女・高福娘(亮の愛人)を通じて亮に伝わり、亮は激怒して汴京遷都を強行、宋・遼の宗室百三十余人を処刑する。さらに福娘とその夫・特末哥の讒言により、太后が甥の鄭王充を擁立しようとしていると疑い、刺客を送って太后を惨殺、遺体を焼いて水中に捨てさせる。鄭王充の子二人も殺され、福娘は夫とともに褒賞を受ける。
金軍の大挙南侵
亮は全軍を三十二軍・三方面に編成し、水陸から臨安を目指す大遠征を発動する。自らかつて描かせた臨安図に「立馬吳山第一峰」の詩を題し、必勝を誇示して出陣する。西路では徒単合喜が大散関に迫るが、王剛中が呉璘を急ぎ起こして応戦させ、金軍を撃退。黄牛堡・隴州・秦州・洮州も次々に奪還し、西北は平定される。
河北・淮東の義軍蜂起
金支配下の大名府では王友直が挙兵して奪還に成功し、朝廷に帰順する。宿遷の魏勝も義勇軍を興して漣水・海州を奪い、寛政を布いて民心を得る。沂州も攻略し金将を撃破するが、金は海州奪還を図って包囲する。李宝の援軍と魏勝の内外呼応により金軍を撃退する。
陳家島の海戦
李宝は膠西白石島で金の水軍と対峙し、風向きを味方に火攻めを敢行して敵艦数百艘を焼き払い大勝する。金将・完顔鄭家奴は戦死し、残兵は降伏する。
劉錡の奮戦と采石への布石
完顔亮は清河口・淮西方面から渡江を図るが、劉錡らの防備で阻まれ、和州・揚州方面へ転じる。守将・王権は敗走を重ね、病身の劉錡も皂角林で防戦し金将・高景山を討ち取るが、自身も病篤くなり後任を求める。高宗は一時海路への避難を考えるが、陳康伯が詔書を焼き捨てて親征を強く諫め、高宗も奮起する。張浚の復職、王権の罷免、李顕忠の登用、虞允文の参賛軍事就任などが決まる。
瓜州の敗戦と虞允文の登場
劉汜・李横の宋軍は渡江して金軍に敗れ、多数の死者を出す。葉義問は敗報に驚き建康へ退く。虞允文は王権軍の犒軍のため采石に赴くが、そこで完顔亮の渡江の急報に接する。
采石磯の戦い
浮足立つ諸将を前に虞允文は自ら陣頭に立って将士を鼓舞し、戦の指揮を執る。宋軍は水陸で布陣し、完顔亮率いる金軍の渡江部隊を迎撃する。時俊ら諸将を激励して奮戦させ、海鰍船で敵船を撃沈、さらに光州潰兵に宋旗を持たせて山陰から現れさせる計で金軍を援軍来襲と誤認させ、退却に追い込む。金軍は多数の死傷者を出して敗退した。
完顔亮の再攻と焼討ち
和州に退いた亮は、金の東京留守・完顔雍(烏禄)が即位改元したとの報を受けて激怒しつつも、まず南宋を滅ぼしてから北帰する方針を固め、燕地出身兵をまず渡江させて背水の陣を敷く策を採る。翌日、楊林河口で虞允文配下の盛新が火箭により金の船団を焼き払い、亮自身の龍鳳舟も炎上、大敗を喫する。亮は苦し紛れに王権への降伏勧誘という反間策を試みるが、虞允文に見抜かれて失敗する。亮は怒りのあまり側近の梁漢臣を斬殺し、揚州方面へ転進する。
評語
完顔亮の暴虐は天も人も許さぬほどで、高宗が奮起して討伐の兵を挙げていれば南北の義士が呼応し中興も果たせたはずだが、実際には敵の南下を聞いて逃避を先に考えるという弱腰であった。幸い陳康伯が内で諫め、虞允文が外で機に応じたため、辛くも一勝を得て東南を保つことができた。世人は寡兵をもって強敵を破った虞允文の功を第一に挙げるが、これは天が完顔亮の悪逆を憎んで義士忠臣の手を借りて誅したとも言えよう。采石の一戦は、なお天の加護によるところが大きい。