宋史演義第七十七回 趙宗の親王を立て服を嗣がしむ/金帝を弑し逆賊淫を肆にす (立趙宗親王嗣服 弒金帝逆賊肆淫)
秦檜の死
昏倒した秦檜は錯乱状態のまま、岳飛や施全ら自ら陥れた人々の名を口走り続け、高宗の見舞いを受けたその日の夜に息を引き取った。秦檜は十九年にわたり和議一辺倒の政治を行い、忠臣良将を退けて私腹を肥やした。死後、高宗は「これでようやく靴に刃を忍ばせずに済む」と漏らしたと伝わる。後に寧宗の代に王爵を追奪され、諡号も「繆醜」と改められた。
秦檜派の没落と旧臣の復権
秦檜没後、その一党である万俟卨・張俊らも次々と力を失い、湯思退・沈該・張綱らが台頭する。趙汾・趙令ら冤罪の者は釈放され、張浚・胡寅・洪皓・張九成らも旧官に復し、趙鼎・鄭剛中の官爵も回復された。張浚は宰相たちの無能を非難する上奏をして再び左遷されたが、まもなく万俟卨も急死。世は岳飛の墓前に秦檜・張俊・万俟卨・王氏の鉄像を跪かせて置き、その悪行を永く記した。
韋太后の死と皇嗣の選定
紹興二十九年、韋太后が八十歳で薨じる。高宗は跡継ぎとして養子の瑗(普安郡王)と璩(恩平郡王)のいずれかを選ぶ必要に迫られ、宮女を試しに両邸へ遣わして人柄を見極めた末、瑗を皇嗣に定めて瑋と改名させた。
金の内紛――海陵王亮の簒奪
金では主戦・享楽にふける皇帝亶(熙宗)に対し、従弟の迪古乃(後の海陵王亮)が野心を募らせていた。亶は嫉妬から近臣の裴満后らを殺害するなど暴虐化し、亮はこれに乗じて衛士らと結託、宮中に乱入して亶を弑逆し、自ら帝位に就いて改元した(天徳)。亮は即位後、宗室を大量に粛清し、叔母や従姉妹など血縁の女性を次々と奪って後宮に入れるなど、極めて淫虐な振る舞いを重ねた。妃の一人、烏林荅氏は貞節を守るため自害するなど、多くの悲劇が生じた。
亮の南侵準備と欽宗の死
亮は燕京に遷都し、母を諭して懐柔しつつ江南への南征を計画。紹興三十一年、金使が来て高宗を威圧的に問責したが、その際に欽宗がすでに金で客死していたことが宋側に知らされた。欽宗は在位わずか二年、抑留三十余年ののち六十一歳で世を去っていた。
評語
高宗が皇嗣選びだけは公平に行ったことは評価できるが、それも太祖の血統を絶やさぬ天意によるところが大きい。金主亶の非業の死は自らの酒色と暴政が招いた当然の報いであり、海陵王亮による宗室根絶やしの惨劇もまた、金の歴代皇帝が宋・遼に加えた残虐の報いと見ることができる。