宋史演義守備を廃し奸臣敵に通ず/和約を申べ使節朝に還る(第八 十回 廢守備奸臣通敵 申和約使節還朝)
張浚の苦境と和議派の巻き返し
- 符離での大敗後、張浚は劉寶らに淮河防備を任せ直し、孝宗にも励まされて防備を立て直そうとしたが、和議派の非難が絶えなかった。
- 孝宗はいったん張浚を支持したが、湯思退が政権に復帰すると風向きが変わり、張浚は樞密使に格下げされ、李顯忠・邵宏淵も処分を受けた。
湯思退の主和路線
- 湯思退は一貫して金との和議を主張し、陳俊卿らの反対にもかかわらず和議を進めた。
- 金の要求(叔姪関係・四州割譲・歳幣・降人送還)を伝える使者盧仲賢は金軍の威圧に屈して四州割譲を約束してしまい、帰国後に処罰された。
- 湯思退は王之望らを使者に立て、密かに割譲・減額を指示するなど和議を強引に進めようとした。
張浚の失脚と死
- 和議派の中傷で張浚は次第に追い詰められ、両淮の防備も撤去された。ついに辞職を重ねて許され、地方官に転じる途中で病死した。臨終に子へ「先祖の墓ではなく衡山に葬れ」と遺言し、忠義一筋であった生涯を惜しまれた。
魏勝の奮戦と戦死、和議派のさらなる攻勢
- 魏杞が使者として金と交渉する一方、金軍は南下し楚州へ侵攻。魏勝は寡兵で奮戦したが力尽きて戦死し、楚州は陥落。両淮は動揺したが楊存中が急行して防衛を固めた。
- 敗勢を受けて湯思退は弾劾され左遷、赴任途中で病没した。
和議の成立
- 陳康伯・虞允文らが再び登用され、王之望・王抃らを通じて金と交渉、最終的に叔姪関係を維持しつつ歳幣を減額(銀・絹各二十万)する和議が成立した。
- 詔書が発せられ、乾道と改元。楊存中や陳康伯ら関係者の異動・死去が相次いだ。
魏杞の使金と国書問題
- 魏杞が金に赴き、国書の文言(「大宋」の削除要求)を毅然と拒み、対等な敵国礼を確保して和約を締結。海・泗・唐・鄧四州と大散関外の新占領地は金に帰した。
- 金でも僕散忠義・紇石烈志寧らが論功を受け撤兵。
皇太子冊立と後宮の出来事
- 孝宗は鄧王愭を皇太子とし、夏氏を新たな皇后に立てた。太子妃には錢端禮の娘が入り、錢端禮は宰相を望んだが批判を受けて退けられた。
- 洪适が右僕射に就くが短期間で辞職。葉顒・魏杞・蔣芾・陳俊卿らが登用された。
相次ぐ喪と皇統の動揺
- 楊存中、秀王夫人張氏、呉璘、皇后夏氏、皇太子愭が相次いで世を去り、孝宗は深く悲しんだ。
陵寝返還交渉の失敗
- 虞允文の主導で范成大が金に赴き、欽宗陵の返還と受書礼の改定を求めたが、金主に拒絶され、書簡を突きつけても受け入れられなかった。
- 続く趙雄の交渉でも成果は得られず、金は欽宗を鞏・洛の地に一品礼で葬るにとどまった。
評語
- 議戦議和が定まらないのは高宗朝からの悪弊で、史浩に代わった湯思退も結局は和議一辺倒であり、敵に重兵で脅させる密謀まで行った点は秦檜以上に姦悪だったと評す。
- それでも孝宗が結局は思退の和議案に従い、姪と称して和を乞うたことを批判し、魏杞・范成大・趙雄の交渉も名を得たのみで実利なく、金主雍が和平を望んでいたのは宋にとって幸運に過ぎなかったと総括する。