宋史演義第六十八回 趙立、礮に中り楚州を失う/劉豫、虜に降り斉帝を称す (趙立中礮失楚州 劉豫降虜稱齊帝)
火計による韓世忠軍の敗北
金軍の火矢攻撃で韓世忠の船団は炎上し、風がないため対処できず、梁夫人の勧めで世忠夫婦は小舟に乗り換えて鎮江へ脱出した。副将の孫世詢・厳允が戦死し、多くの兵が焼死・溺死した。兀朮はこの間に無事渡江した。
論功と自劾
世忠は敗戦を悔やみ自ら弾劾の上表を行うが、梁夫人も太后への働きかけを申し出る。朝廷からは寡兵で四十八日耐えた功をもって咎めず、検校少保に任じる詔が下った。
兀朮、建康を奪還され西へ転進
北帰した兀朮は静安鎮で岳飛軍に遭遇して敗走。建康はすでに岳飛に奪われていた。楚州攻めの撻懶軍と合流を図るが、楚州の趙立は仮道の使者を斬るなど頑強に抵抗した。
趙立の楚州死守と戦死
撻懶・兀朮の挟撃を受けた楚州は趙立の指揮で耐えたが、援軍の張俊・劉光世は動かず孤立無援となる。趙立は攻防戦の中で砲弾を受けて重傷を負い、なお指揮を執り続けたが息を引き取った。その後まもなく楚州は陥落。趙立の忠勇は高宗に称えられ忠烈と諡された。
兀朮の陝西転進と張浚の富平の戦い
楚州陥落後、兀朮は張浚の陝西進出に対抗するため西へ転じ婁室と合流。張浚は五路の軍四十万を集めて決戦を挑んだが、統帥劉錫の統率不十分と趙哲の敵前逃亡により富平で大敗を喫した。
劉子羽の四川防衛策
敗戦後、四川撤退論が出たが、劉子羽は陝西を放棄すれば蜀も危ういと説き、興州駐留と諸将招集を進言。張浚はこれを容れ、劉子羽自ら出向いて散兵を集め、呉玠らを要衝に配して金軍の侵攻を食い止めた。
汴京陥落と劉豫の斉帝擁立
金の撻懶は山東を席巻し汴京を陥落させた。劉豫は金への献金を通じて藩王擁立を働きかけ、金主の裁可を得て斉帝に即位、金の傀儡国家を樹立した。
秦檜の南帰と和議工作
撻懶の下で信任を得ていた秦檜は妻の王氏と共に脱出したと称して南帰し、范宗尹らの推挙で高宗に取り立てられた。秦檜は和議を進言し、参知政事に抜擢された。
評語
知州であった趙立の忠義と、同じく知府であった劉豫の反逆とが対照的に描かれる。張浚と秦檜もまた対比され、張浚は敗戦の責はあっても不忠とは言えず、劉豫と結び付けられる秦檜の本質は逆臣に等しいと筆者は評する。