宋史演義第六十三回 遺祚を承け藩王極に登る/逆案を発き姦賊誅に伏す (承遺祚藩王登極 發逆案姦賊伏誅)
張邦昌の退位と康王擁立
金軍が去ったのち、呂好問や監察御史馬伸は張邦昌に退位と康王擁立を説く。邦昌は元祐皇后孟氏を宋太后として迎え、知淮寧府の子崧らの糾弾も受けて謝克家を康王のもとへ遣わし、帝位を康王に譲る意を伝える。
宗澤の進言と康王の逗留
康王は天下兵馬大元帥として陳遘・汪伯彥・宗澤を伴い出発する。宗澤は金軍を連破し、康王に急ぎ汴京へ進撃するよう進言するが、汪伯彥は「勅命により駐屯すべき」と反対し、康王もこれに従って進軍を控える。宗澤は独力で転戦を続けるが、援軍は集まらず、康王は済州に留まったまま動かない。
即位の勧進
京城陥落と邦昌の書状が届き、呂好問・宗澤らも即位を促す。孟太后からも璽宝が届けられ、康王はついに受諾し、応天府にて即位の準備を進める。
高宗の即位
建炎元年五月朔、康王は受命壇で即位し、元号を建炎と改める。張邦昌には罪を問わず、童貫・蔡京らの子孫のみ登用を禁じる。欽宗を孝慈淵聖皇帝、孟氏を元祐太后、生母韋氏を宣和皇后、夫人邢氏を皇后と遙かに尊称する。以後、南宋と呼ばれる。
高宗出生をめぐる異聞
李煜の後身説や、銭王鏐の生まれ変わり説、泥馬渡康王の伝説など、正史に見えない巷説が紹介される。著者はこれらを真偽不明としつつ紹介するにとどめる。
新政権の人事と李綱の登用
高宗は黄潜善・汪伯彥を要職に就け、張邦昌にも太保・太傅の位を与える一方、李綱を尚書右僕射兼中書侍郎に召す。耿南仲・馮澥は罷免され、宣仁太后高氏の名誉も回復される。
李綱の十事
宗澤・李綱がそれぞれ復興の大計を説くが、汪伯彥・黄潜善は二人を疎んじ、宗澤を襄陽へ追いやる。李綱は宰相就任にあたり、国是・巡幸・赦令・僭逆・偽命・戦・守・本政・久任・修徳の十事を建策し、高宗はこれを了承する。
張邦昌の断罪
李綱は特に張邦昌の僭逆と、偽命に服した官吏の処分を強く求める上奏を行う。黄潜善は邦昌を庇うが、呂好問の証言や李綱の強い訴えにより、高宗はついに邦昌を潭州に流し、王時雍ら側近も処罰する。
邦昌の醜聞と最期
邦昌が在位中に女官李氏の養女陳氏と密通していた不行跡が露見し、高宗は邦昌に自尽を命じ、王時雍らも誅殺される。
李綱の施策
李綱は右僕射・御営使として、河北招撫司・河東経制司の設置、両河への大赦、宗澤の東京留守起用、沿河・江淮の帥府設置、軍制の整備、募兵・買馬、車駕の巡幸先の検討、金への使者派遣、元祐党籍の名誉回復など、多くの施策を次々と実行する。
汪黄の専横と東南遷幸の動き
しかし黄潜善・汪伯彥は依然として李綱を妬み和議を唱え、金軍が河中を陥落させると高宗に東南への遷幸を勧める。これに対し一人の忠臣が上表して汴京への還幸を訴えようとする。
評語
著者は、康王が済州に逗留し応天府で即位したことに既に将来の限界を見出す。汴京危急の際に速やかに援軍すべきであったのに東方で自己保身に走り、即位後も汪黄を重用し、張邦昌のような逆臣にまで王爵を与えたことを批判する。李綱の強諫がなければ更に紀綱が乱れたとし、朱子の評を引いて李綱の功績を称える一方、名君なくして直臣は長く用いられぬと、後の李綱失脚を予感させて結ぶ。