宋史演義第六十四回 宗留守、疾を力めて軀を捐つ/信王榛、敗亡して跡を失う (宗留守力疾捐軀  信王榛敗亡失跡)

宗澤の汴京再建

高宗が東南遷幸を望む中、東京留守の宗澤は荒廃した汴京の治安を回復し、盗賊七十万を号する王善を説得して帰順させ、楊進・田再興ら他の群盗も次々に招撫する。城壁を修築し戦車や砦を整え、五丈河を開いて商業を復興させる一方、高宗に還幸を求め続けるが色よい返事は得られない。金の使者を拘留して処罰を求めるが、朝廷はかえって使者を丁重に扱うよう命じる。

岳飛の躍進

軍令違反で処刑されかけた岳飛を宗澤は才を見込んで許し、汜水の援軍に抜擢する。岳飛は金軍を大破し、統制に昇進して名を知られるようになる。

陳東・欧陽澈の死と李綱の失脚

宗澤の再三の上奏にもかかわらず、高宗は太廟の神主や太后・後宮をも汴京から移してしまう。李綱は左僕射に転じるも黄潜善・汪伯彥の讒言により在職わずか七十七日で罷免される。太学生陳東と布衣歐陽澈が李綱の復職と汪黄の罷免を求めて上書したことが高宗の怒りを買い、両名は処刑される。後に汪黄が失脚した後、二人は名誉を回復される。

揚州への遷幸

高宗はついに揚州への遷幸を決行し、隆祐太后(元祐太后)らが先発する。李綱は鄂州に流され、金への和議交渉に遣わされた王倫らはかえって金に抑留される。

金軍の南侵

干離不の死後、粘沒喝が実権を握り、宋の弱腰を見て南侵を決意、銀朮可・訛裡呆・兀朮・阿里蒲盧渾・婁室ら諸将を各方面に分けて侵攻させる。陝西・河南各地が次々と陥落し、鄭驤ら多くの官吏が殉死する。

宗澤の防戦

建炎二年、金軍は鄧州・襄陽方面にも侵攻するが、宗澤は落ち着いて計略を巡らし、伏兵によって金軍を撃退する。裏切った部将は処刑し、士気を保つ。金将王策を捕らえて情報を得た宗澤は、諸将を励まし大挙して渡河する計画を立てる。

岳飛と王彥の奮戦

王彥・岳飛らは新郷で金軍と戦い、岳飛の奮戦で勝利するが、糧食を巡って王彥と対立し、岳飛は宗澤の元に帰参する。王彥はその後も両河で義勇軍を結集し「赤心報国誓殺金賊」を掲げて抗戦を続ける。

宗澤、志半ばで没す

宗澤はなおも高宗の還幸を訴える上奏を重ねるが、黄潜善・汪伯彥の妨害で聞き入れられず、憂憤のあまり背中に腫物を患う。死の間際まで金賊討滅を諸将に託し、最期は「河を渡れ」とだけ三度叫んで息絶える。跡を継いだ子の宗穎も杜充の下で疎んじられ、招撫した義勇兵は散り散りになってしまう。

信王榛の悲劇

金軍占領地の各地では抵抗が続くが、婁室・兀朮らの侵攻で次々に陥落する。徽宗第十八子の信王榛は北送の途中に逃れて真定に潜み、馬擴・趙邦傑らに擁立されて両河の義民を糾合するが、黄潜善・汪伯彥の妨害で朝廷の支援を得られず、金軍に山寨を攻められて行方知れずとなる。

評語

著者は、靖康の世に李綱・種師道を用いていれば北狩には至らず、建炎の世に李綱・宗澤を用いていれば南遷には至らなかったはずだと述べる。宗澤の還幸を求める上奏は二十余度に及んだが、ことごとく黄潜善・汪伯彥に阻まれたとし、高宗の不明を厳しく批判する。信王榛が一族一旅の身でなお回復を志したのに対し、高宗は数路の大軍を擁しながら汪黄の言を信じて東南に逃れたことを対比し、宗澤の死と信王榛の失踪をもって両河・中原がついに失われたと総括する。