宋史演義第六十一回 和を議し戦を議し朝局紛争す/国を誤り家を誤り京城守を失う (議和議戰朝局紛爭 誤國誤家京城失守)
種師中の戦死
金将粘沒喝が太原を包囲し、姚古・種師中が救援に向かう。師中は朝廷から進撃を督促され、輜重も整えぬまま進軍して緒戦は連勝するが、姚古の援軍が期日に来ないまま金軍の大軍に包囲され、兵糧も尽きて士卒は離散、わずかな親兵とともに力戦の末に戦死する。
太原陥落と朝議の混迷
金軍はさらに姚古の軍も破り、種師道は弟の死を悲しみ病と称して辞任を願う。李綱が宣撫使として太原救援に立つが、耿南仲・唐恪ら和議派が妨害し、諸将の統制も乱れて劉鞈・解潜・張思正らの軍は次々に敗れる。李綱は召還され種師道が後任となるが、朝廷では宰相たちの主戦・主和が割れたまま実効ある策を打てず、宋の輔臣が蕭仲恭・趙倫という金の降将に耶律余睹への内応工作を託すという浅慮な策も裏目に出て、金主を激怒させ粘沒喝・干離不の南侵を招く。太原はついに陥落し、知府張孝純は捕らえられて金に降る。守将王稟は自ら汾水に身を投げ、多くの官吏が殉死する。
朝廷内の主戦・主和の争い
徐処仁・許翰の主戦派と耿南仲・唐恪の主和派が対立し、吳敏も和議側につく。朝議は罵り合いにまで発展し、結局徐処仁・吳敏・許翰らが罷免されて唐恪らの和議派が実権を握る。李綱も讒言により揚州へ左遷される。
四道総管の設置と和議の破綻
何の建策で天下を四道に分け総管を置くが、和議派は依然出兵を渋る。宋は金使を抑留し遼の旧臣に内応を促した経緯を金に知られており、金軍は真定・中山へと進撃を続ける。金使王汭は三鎮割譲と金主への尊号奉呈を強く迫り、欽宗はなすすべもなく諸方に義勇兵を募る哀痛の詔を発する。
種師道の死と李綱の左遷
種師道は長安への一時避難を進言するが受け入れられず、病没する。李綱もすでに揚州に出ており、さらに建昌軍へ流される。
康王、磁州・相州で難を逃れる
金軍が黄河を渡り迫る中、朝廷は三鎮割譲と康王の再訪金を決める。使者王雲に伴われて出発した康王構は、磁州の知州宗澤の諫めで北行を思いとどまる。王雲は民衆の怒りを買い、殴殺される。康王は相州の汪伯彥に迎えられ滞在する。
岳飛の登場
この地で岳飛(湯陰県出身、元真定部校)が康王に謁見し、その武勇を認められて承信郎に任じられる。盗賊平定の功も挙げ、康王の護衛として重用されるようになる。
康王の募兵と聶昌の横死
耿南仲が駆けつけ、金軍が両河割譲を求め、自身が河北に赴いた際に襲われかけたこと、聶昌が河東で惨殺されたことを報告する。康王は耿南仲と共に募兵の榜を掲げる。
汴京包囲と郭京の茶番
金軍は懐州を落とし、干離不・粘沒喝が汴京を包囲する。孫傅の推挙で怪しげな術士郭京が登用され、「六甲の兵」なる素性の知れぬ者たちを募るが、実戦の役に立たない。欽宗は西幸を拒み死守を宣言し、自ら城壁に立って将兵を励ますが、厳寒の中で士卒は疲弊する。
汴京陥落
唐恪は失脚し、張叔夜らが奮戦するも及ばず、郭京の「六甲兵」は出撃するや潰走し、城門は開いたまま金兵になだれ込まれる。姚友仲ら諸将は戦死し、汴京は陥落する。欽宗は種師道の言を用いなかったことを悔いる。
評語
著者は、三鎮を割くと決めながら実際には割かず、その一方で戦備も怠るという朝廷の一貫性のなさを痛烈に批判する。和議も戦備もどちらも徹底されず、敵の謀略に乗せられて強敵を刺激し続けた結果が京城陥落であるとし、李綱の罷免と種師道の死こそが致命的だったと述べる。欽宗が悔いたのは西幸できなかったことであって、真に反省すべき点ではなかったとし、趙宋の行く末を嘆いている。