宋史演義敵の約に遵い城下に盟を乞う/悪貫満ち途中に首を授く(第六 十回 遵敵約城下乞盟  滿惡貫途中授首)

欽宗、都に留まり親征を決意

欽宗は上皇(徽宗)を送り出したのち、自らも都を離れて避難するよう白時中・李邦彦らに勧められるが、李綱だけがこれに反対する。欽宗は綱を尚書右丞・東京留守に任じ、いったんは都落ちを口にするものの、綱の涙の諫めと禁衛軍の「社稷を死守する」との声に心を動かされ、宣徳楼で親しく将兵に諭し、綱を親征行営使に任命する。綱は急ぎ城壁と武具を整えるが、間もなく金軍が城下に迫り、牟駝岡の軍馬二万頭を奪われる。

和戦の対立と金の四箇条

白時中は辞職し、李邦彦・張邦昌が宰相となる。李綱は主戦、李邦彦は主和を唱え、欽宗は和を採る。金の使者との交渉中にも金軍は攻城を仕掛けるが、李綱の防備と夜襲によって撃退する。金は改めて誓書と親王・宰相の派遣を要求し、欽宗の命で赴いた李梲は金将干離不に威圧され、和議の条件書を持ち帰る。翌日も金軍は攻めるが、何灌らの奮戦で退く。条件は、莫大な金銀牛馬の供出、中山・太原・河間三鎮の割譲、宋帝が金に伯父の礼を取ること、宰相・親王を人質に出すことの四箇条であった。李綱は到底のめない内容だと反対するが、李邦彦・張邦昌に押し切られ、欽宗も和議を許してしまう。

康王を人質に、三鎮割譲へ

都の金銀を集めても要求額には遠く及ばず、まず地図の引き渡しと誓書、そして人質として康王構(徽宗第九子)が張邦昌とともに金営へ送られることになる。

種師道の入京と姚平仲の夜襲失敗

種師道が援軍を率いて入京し、京畿・河北・河東の宣撫使に任じられる。李綱は金軍を包囲・消耗させて誓約を破棄する持久策を説くが、姚平仲が夜襲による速戦を主張し、欽宗もこれに傾く。種師道は慎重だったが押し切られ、平仲は夜半に金営を襲うも空営で、逆に伏兵に包囲されて敗走、姚平仲自身は逃亡してしまう。李綱の援軍も辛くも金兵を退けるが、この失敗を口実に李邦彦らは種師道の再攻策を握りつぶす。

李綱の罷免と陳東上書

金将干離不は夜襲を理由に激怒し、康王・張邦昌を詰問した上で親王の真偽を疑い、李邦彦に責任追及を求める。邦彦は姚平仲・李綱の独断としてこれに応じ、李綱は罷免され親征行営使も廃止される。これに対し太学生の陳東が上書し、李綱の忠を称え李邦彦らを「社稷の賊」と弾劾、李綱の復職と種師道への軍事委任を訴える。宣徳門前に集まった軍民数万が抗議し、召還に出た宦官朱拱之が撲殺されるなど騒然となる中、欽宗はやむなく李綱を復職させ、種師道が入城して群衆を鎮める。

学生弾圧の中止と楊時の登用

朝廷は事件の首謀者を捕らえようとするが、士民はなお憤り、欽宗は楊時を国子監祭酒に任じて学生を宥める。楊時は程門の高弟として知られる学者で、この人選により太学生も矛を収める。また元祐党籍の禁も解かれ、范仲淹・司馬光らが追贈される。

粛王を人質に金軍撤退

金は再び使者を送り三鎮割譲と人質の交代を求め、欽宗は徽宗第五子の粛王樞を人質に差し出す。金は康王・張邦昌を解放し、李綱の守りが固いのを見て金幣の完納を待たず撤兵、京城の戒厳は解かれる。呂好問は金の再来襲を警告するが聞き入れられず、李邦彦は左遷、張邦昌・李綱らが登用される。

蔡京・童貫らの断罪

太学生陳東らの弾劾により梁師成・蔡京・童貫らが次々と処罰される。蔡京の子蔡翛は服毒、蔡攸は縊死、蔡京自身も流刑の途上で死去。童貫は配流の途中、勅使を装った刺客に斬られる。悪政を主導した六賊のうち、高俅のみが官位剥奪で済んだ。

太原攻防の兆し

新任の宰相たちのもとで三鎮死守の方針が定まり、種師道・姚古・種師中らが太原・中山・河間への援軍を命じられる。次回、太原での決戦と種師中の戦死が語られる。

評語

著者は、この時点でなお李綱・種師道と数十万の勤王兵があれば金軍を退けられたはずで、陳東の上書こそ的を射ていたと評する。しかし欽宗はこれを活かせず、金が去ってもなお疑心暗鬼のまま、蔡京・童貫らを罰しても士気は上がらなかった。耿南仲・唐恪らの誤国も六賊に劣らぬものであり、この回を読んで憤慨せざるを得ないと結んでいる。