宋史演義第五十九回 外釁を啓き胡人南下す/内禅を定め上皇東奔す (啟外釁胡人南下  定內禪上皇東奔)

張瑴の帰順とその破綻

宣和五年、金の平州留守張瑴が燕地の民の訴えに動かされ、遼への忠誠を掲げて金の使者格の左企弓ら重臣を処刑し、宋への帰順を申し出る。趙良嗣は金との盟約破棄を招くと諫めるが、王黼らの勧めで徽宗はこれを受け入れる。金は激怒して平州を攻め、張瑴は敗れて燕山府に逃げ込むが、金の圧力に屈した宣撫使王安中は替え玉を処刑して誤魔化そうとした末、結局張瑴を絞殺しその首を金に差し出す。この一件で燕地の降将・常勝軍の郭薬師らは動揺し、宋への不信を募らせる。

金の態度硬化と譚稹の失脚

金の太祖阿骨打が死去し弟の呉乞買(太宗)が即位。宋は残る領土の割譲を求めるが、譚稹の対応が拙劣で金の怒りを買い、金は南侵を決意する。宋廷は譚稹を罷免し、童貫を再び両河燕山路宣撫使に起用する。

重税と徽宗の享楽

燕地防衛の費用を賄うため諸路に夫役・免夫銭が課され、民は困窮する。一方で徽宗は王黼・梁師成邸への微行や祥瑞と称する玉芝見物に興じ、泥酔するなど享楽を続ける。

宮廷内の権力闘争

浪子宰相と呼ばれた李邦彦の讒言などから王黼は失脚(後に誅殺)、蔡京も四度目の登用の末に子の蔡絛の専横が問題視されて父子ともに失脚する。蔡攸と蔡絛・蔡京は互いに反目し、宮廷は混乱を極める。この間、天狗星や黒眚、怪異な出産譚など不吉な前兆が相次ぐが、宋廷は太平を装い危機感を持たなかった。

金軍の南侵

宣和七年、金は斜也・粘沒喝・撻懶らを将として二路から南侵を開始する。童貫は太原で金軍の威圧を受けて交渉に失敗、河東・燕山方面で童貫・郭薬師(ついに金に降る)らが総崩れとなり、金軍は黄河に迫る。

徽宗の内禪と東奔

危機に際し宇文虚中の起草で罪己の詔が出されるが焼け石に水。李綱の血書による進言を受け、徽宗は皇太子桓に譲位(欽宗即位)し、自らは太上皇(道君皇帝)となる。陳東ら太学生は蔡京・童貫ら「六賊」の誅殺を求める上書を行うが対応は遅れる。金軍が黄河を無人の渡しのようにやすやすと渡り南下すると、王黼・蔡京ら奸臣は先を争って逃げ出し、太上皇徽宗も童貫の勝捷軍に護られて東方へ避難した。都には欽宗のみが残され、守るか逃げるかで議論が紛糾する場面で本回は終わる。

評語

目先の小利(張瑴の帰順受け入れ)に走って金との盟約を損ね、危機が迫っても酒色と祥瑞見物に耽り、天変地異の前兆を顧みなかった徽宗の驕奢と無為を厳しく断罪する。金軍侵入後も責任を子(欽宗)に押し付けて逃げた徽宗の態度を、驕奢淫逸にして禍を免れた者はいないと総括し、北宋滅亡の主因は徽宗にあり、欽宗はなお同情の余地があると結ぶ。