宋史演義第五十八回 功を誇り石に銘し艮嶽山を成す/国を覆し身を喪い孱遼祀を絶つ (誇功銘石艮嶽成山 覆國喪身孱遼絕祀)

燕京返還交渉の難航

童貫は二度の敗戦で燕京を得られず、密かに金へ夾攻を要請する。金主は逆に出兵の遅れを詰り、趙良嗣との交渉でも当初約束の山前山後十七州を大幅に減らし、燕京・薊・景・檀・順・涿・易の六州のみを渡すと強硬姿勢を崩さない。「攻め落とせぬくせに何を望むか」と趙良嗣を一蹴し、租税収入も金側が留保しようとするなど終始宋側が押し切られる交渉が続く。

遼の滅亡と燕京の陥落

金は三方から燕京へ進撃。蕭后は秦王定擁立の承認を金に求めるが拒絶され、居庸関では偶然の崖崩れで守兵が壊滅し金軍が突破、燕京も無血開城する。蕭徳妃と蕭幹は夜陰に紛れて逃走し、遼の五京はすべて金の手に落ちた。

燕京割譲の和議

趙良嗣がなおも平・営・灤三州を求めるも金は拒否し、遼の捕虜を宋に返すのみ。租税をめぐる交渉も難航し、最終的に歳幣四十万に加え燕京代税銭百万緡を毎年金に支払うことなどを条件とする四か条の和約が結ばれる。ようやく引き渡された燕京は、金軍にすでに財物・人民を掠奪し尽くされた空城であった。

童貫・郭薬師への恩賞と燕京統治

童貫・蔡攸は帰朝して加封され、郭薬師も厚遇されるが、徽宗から旧主天祚帝の追討を命じられると涙を流して拒む一幕もあった。郭薬師は恩賞を独占せず部下に分け与えて人心を得ようとした。一方、功のなかった鄭居中は辞退し、まもなく病没する。

艮嶽(万歳山)の造営

方臘の乱平定と燕地獲得を記念し、政和七年から六年をかけて造営された壮麗な庭園「万歳山」が完成、艮の方角にあることから「艮嶽」と改名される。徽宗自ら書いた『艮嶽記』を引用し、諸国から集めた奇石・珍木・異草を配した壮大な人工山水の様子が詳述される。神運石のそばに植えられた双檜には「秦檜」「南渡」を暗示するとも言われる詩が刻まれるなど、後世から見た不吉な予兆も語られる。禽獣を手なずけて瑞祥を演出する薛翁の逸話や、茂徳帝姫・李師師の邸へ通じる複道が艮嶽内に設けられていたことも記される。

宮廷の寵愛の移ろいと燕山統治の混乱

徽宗は蔡京・王仔昔・林霊素ら寵臣・道士を次々に重用しては見限り、童貫・蔡攸も驕慢を理由に疎まれ始める。王黼・梁師成の推挙で宦官の譚稹が童貫に代わって燕山方面の宣撫使となるが、これが後の宋金関係悪化の火種となる。

天祚帝の敗走と遼の完全滅亡

夾山を追われた天祚帝は西夏に援軍を求めるが夏の援軍も金に撃退される。金軍の追撃で秦王定ら皇族が次々捕らえられ、天祚帝自身も各地を転々とし、蕭徳妃を自ら殺害するなど混乱を極める。蕭幹は奚国皇帝を自称して独自に抵抗するが敗死。天祚帝も西夏に頼ろうとするが拒まれ、飢えと寒さの中を彷徨った末に金将婁室に捕らえられ、海浜王に落とされて間もなく殺害された。太祖阿保機以来八代二百十年続いた遼はここに滅亡する。ただし耶律大石は西方に逃れて西遼を建て、その後三代続いたという。

評語

莫大な人力と歳月を費やして得たのが略奪され尽くした空城七つに過ぎないのに、それを誇り艮嶽の造営にも六年を費やす徽宗の奢侈を痛烈に批判する。国力で遼にも及ばない宋が、その遼すら滅ぼせなかった金と対等に渡り合えるはずもなく、遼の天祚帝と宋の徽宗という南北二人の暗君が相次いで国を滅ぼしたことを後世への戒めとして述べる。