宋史演義第四十八回 兄の祚を承け初政清明なり/閹言を信じ再び奸慝を用う (承兄祚初政清明 信閹言再用奸慝)
徽宗の即位
哲宗崩御を受け、向太后は輔臣を集めて後継を協議する。章惇は簡王似や申王佖を推すが、太后は端王佶(徽宗)を推し、曾布・蔡卞・許将らも太后に賛同したため、章惇は孤立して沈黙せざるを得なくなる。端王佶が即位して徽宗となり、太后は当初訓政を固辞するが徽宗の懇願で受け入れる。徽宗は生母陳美人を皇太妃に追尊し、皇族の封を進め、章惇を申国公、韓忠彦を門下侍郎に任じるなど人事を整える。韓忠彦は仁恩・言路・戒兵など四事を上奏し太后の賛同を得る。
青唐・邈川の喪失
王贍の圧政に反発した吐蕃諸族が反乱を起こし、籛羅結が邈川を包囲、夏の援軍も加わって危機に陥る。王贍は青唐を放棄して撤退、王厚も邈川を守れず、朝廷は両者を処罰し青唐・邈川を放棄して現地勢力に返還する。王贍は左遷の道中で自ら命を絶った。
崔鶠の直言と鄒浩・孟后の復権
日食を機に直言を求める詔が出され、筠州推官崔鶠が上書し、章惇を「賊」と呼ぶ世評を引きながらその奸悪を厳しく糾弾し、元祐諸臣を奸党視する風潮を戒めた。徽宗はこれを評価し、鄒浩・陳瓘らを再登用、安惇を左遷する。孟氏は元祐皇后として宮中に復帰し、韓忠彦が尚書右僕射に昇進する。
元祐旧臣の名誉回復と蘇軾の死
韓忠彦の建言により范純仁ら流謫の旧臣が呼び戻され、観文殿大学士に任じられるが、純仁は老病を理由に固辞する。蘇軾も相次いで移配されたのち常州で病没した。文彦博・司馬光・呂公著・呂大防・劉摯・王珪ら三十三人の官階が回復され、逆に蔡卞・邢恕が処分される。向太后は政治が安定したのを見て、わずか半年ほどの訓政で自ら政権を返上した。
章惇の失脚と改元
哲宗の山陵使を務めた章惇は、台諫の弾劾により越州に左遷され、さらに陳瓘の追及で潭州安置となる。蔡京・林希も連座して左遷された。韓忠彦が首相、曾布が次席となり、元祐・紹聖両派の融和を掲げて「建中靖国」と改元する。
天変地異と向太后の崩御
新年の朝賀で赤白の光が現れる怪異があり、右正言任伯雨が陰陽の理を説いて凶兆を警告する上疏を行うが、直後に向太后が病篤くなり間もなく崩御した(享年五十六)。徽宗は太后の母族に恩を及ぼし、生母陳太妃・哲宗生母にも尊号を追贈した。
范純仁の死と章惇の末路
向太后崩御と前後して范純仁も病没、遺表で徽宗に清心寡欲・朋党排除などを説いた。任伯雨は章惇の罪を重ねて弾劾し、遼の使者すら章惇の失脚を喜んだという逸話も紹介される。徽宗はついに章惇を雷州司戸参軍に左遷、かつて章惇が蘇轍を陥れた土地で章惇自身も民家を借りられぬ因果応報に遭う。章惇は妻の遺言(怨みに報復するなの戒め)を守れなかったことを悔いつつ、睦州に移されて病死した。
曾布の専権と蔡京の暗躍
曾布は実権を握ると紹述路線に戻り、直言を続ける任伯雨や剛直な范純礼を退け、李清臣も罷免するなど朝政を意のままにする。一方、杭州に左遷されていた蔡京は宦官童貫と結託し、徽宗の書画趣味に取り入って巧みに評判を高め、さらに范致虚・徐知常らを通じて宮中への働きかけを強める。曾布も韓忠彦との対立から蔡京を引き入れ、蔡京は翰林学士承旨に復帰する。鄧洵武は徽宗に対し、神宗の新法継承(紹述)を巧みな比喩で説き、蔡京こそがその適任者だと吹き込み、元祐派を多数派として描いた図を献じて徽宗の疑念を煽った。徽宗は次第に蔡京登用へと傾いていく。
評語
宋朝は他の王朝と異なり、母后の摂政が短命に終わったことを惜しむべき「奇事」であった。宣仁太后・向太后の摂政期にこそ哲宗・徽宗の善政があった。徽宗親政後も曾布のような奸臣が残り、元祐・紹誠両派の融和を図ったことで賢と奸が並び立つ結果となったが、賢者が奸者を容れることはあっても奸者が賢者を容れることはあり得ない。蔡京を引き入れたのは童貫というより、実は曾布その人である。狼を室に導き入れれば必ず自ら食われる、曾布はそれを慎むべきであった。