宋史演義第四十九回 端礼門に碑を立て正士を誣う/河湟路に将を遣り西蕃を復す (端禮門立碑誣正士 河湟路遣將復西蕃)

崇寧改元と曾布の失脚

徽宗は鄧洵武の進言を容れて蔡京を重用する決意を固め、年号を「崇寧」と改めて熙寧の政治への回帰を示す。蔡卞・邢恕ら旧紹聖派が次々と復官する一方、韓忠彦は左遷され、司馬光・文彦博ら多数の官階が再び剥奪される。蔡京は尚書左丞に就くが、宰相曾布とはもともと不仲で、人事をめぐり対立を重ね、ついに御史の弾劾を受けた曾布は失脚する。かつて何度も派閥を渡り歩いた楊畏(「楊三変」の異名)以上に節操のない人物として、曾布も『宋史』奸臣伝に名を連ねることになったと評される。

蔡京の専権と「党人碑」

曾布に代わり蔡京が尚書左僕射兼中書侍郎として宰相となる。徽宗の「父兄の遺志を継ぎたい」との言葉に蔡京は忠誠を誓い、講議司を設けて私党を要職に配し、元祐年間の旧法派官僚や自分に異を唱える者をことごとく「元祐党人」として弾劾する。蔡京は徽宗に命じて、司馬光・文彦博・呂公著・呂大防・劉摯・范純仁・蘇軾・蘇轍・程頤・黄庭堅ら百二十人にのぼる名を刻んだ石碑(いわゆる党人碑)を端礼門に建てさせた。また元符末の直言上書を採点し、蔡京らに都合の良い者だけを高く評価し、それ以外を大量に処罰するなど、章惇の時代以上に苛烈な粛清を行った。

孟后の再廃位と鄒浩の再流罪

昌州判官馮澥が元祐皇后(孟氏)の復位に異を唱える上書を行うと、これに乗じて劉太后側近の郝隨と結んだ蔡京は輔臣に諮り、韓忠彦らの反対を押し切って孟氏を再び瑤華宮に追いやる。同議に加わった韓忠彦・曾布らも降格され、李清臣・黄履ら十七人が遠方に流された。劉皇后はまた鄒浩への恨みも晴らそうとし、蔡京の私党にかつての鄒浩の諫草を捏造させ、劉后への誣告文にでっち上げて徽宗に上奏、鄒浩は昭州へ流罪となった。劉后の亡き子茂は太子に追封され、劉后自身は皇太后に上る。

蔡卞の台頭とさらなる弾圧

蔡京の弟蔡卞も枢密院知事に昇り、兄弟で権勢を握って任伯雨・陳瓘・龔夬ら直言の臣を各地へ流し、党人の氏名を諸郡県に刻石させる。長安の石工安民は、司馬光のような人望篤い人物を「奸」として刻むことを拒もうとしたが、府官に強要され、せめて自分の名だけは刻まないよう願い出て涙ながらに彫り終えたという逸話が伝えられる。

河湟遠征と鄯・湟・廓三州の奪還

蔡京は財政や軍備の拡充を進める一方、王厚・高永年を辺将に登用し、吐蕃諸族の内紛に乗じて湟州・鄯州・廓州の奪還を図る。童貫を監軍として派遣し、徽宗が一時出兵中止を命じた手札を童貫が隠して独断で進軍を続けるなど、宦官の専横の萌芽も見える。王厚・高永年は多羅巴・溪賒羅撤らの軍を各地で撃破し、湟州・鄯州・廓州を次々と平定した。この功により蔡京は司空・嘉国公に、童貫・王厚・高永年らも昇進する。蔡京は勝利に乗じて講議司を廃し尚書省への権限集中を進め、司馬光らの肖像を撤去し、蘇軾・蘇轍兄弟や黄庭堅・秦観らの文集を禁書とし、王安石を孔子廟に配祀するなど、思想統制も強めた。

蔡京・蔡卞兄弟の不和

権勢を強めた蔡京は許将を退け趙挺之らを重用し、私党の胡師文・陶節夫らを要職に就けて辺地からの賄賂を吸い上げる。一方、弟の蔡卞は宦官による辺境統治の危険を説いて兄と対立し、地方へ出される。蔡卞は王安石の娘を妻とし、家庭内の意見に左右されがちであったことが周囲に揶揄されており、妻の一言をきっかけに兄への不満を募らせ、最終的に兄によって排斥された。

評語

王安石の後に章惇が現れ、章惇の後に蔡京が現れた。宋室の元気はこうして幾度も損なわれていく。石工の安民でさえ司馬光の名を刻むことをためらったのに、蔡京は同じ人間でありながら旧臣を根こそぎ排除しようとした。専権を恣にすれば人心が離れ国が傾くことに気づかなかったのだろう。鄯・湟・廓三州の奪還も、その地を得ても民の利にはならず、将兵の血を流して権臣の栄達に供したにすぎない。多くの家族が犠牲となった一方、この勝利に味を占めたことがのちの遼・夏との禍の種となった。得るもの一つに対し失うもの十、これが小人と国事を語ってはならない所以である。