宋史演義第四十七回 辺防を拓き謀りて勝を制するを定む/后位を竊み喜極まり悲を生ず (拓邊防謀定制勝 竊后位喜極生悲)
宣仁太后への誣告未遂
章惇・蔡卞は宣仁太后への追罪を狙い、邢恕・郝隨と謀って、司馬光・劉摯・梁燾・呂大防らが崇慶宮の内侍陳衍と結んで廃立を企てたとする筋書きを作る。すでに流罪となっていた陳衍のほか、旧同僚の内侍張士良を召し戻し、蔡京・安惇が威嚇的な取り調べを行うが、士良は拷問の脅しにも屈せず虚偽の証言を拒み通す。証拠を得られない蔡京・安惇は陳衍のみを大逆として処刑させ、章惇・蔡卞は宣仁太后を庶人に落とす詔案を独断で作成し哲宗に提出する。哲宗が決めかねているところへ太后(向太后)から召し出され、宣仁太后にそのような遺言のあるはずがないと涙ながらに諭され、哲宗は詔案を燈火で焼き捨てる。翌日章惇らが再度迫るが、哲宗は激怒してこれを退け、事は沙汰止みとなった。
西夏との攻防と章楶の築城策
元符元年、夏主秉常が没し子の乾順が立つ。宋は冊封するが国境画定は定まらず、紹聖三年には乾順が母梁氏とともに五十万の大軍で鄜延に侵入、金明砦を陥落させるなど宋軍は大敗を喫する。鄜延経略使呂惠卿のもとに夏側から皮肉交じりの書簡が届く一幕もあった。渭州知事章楶が葫蘆河川に築城する平夏策を献策、章惇の後押しで実行され、平夏城・靈平砦を完成させる。章惇はこれを機に夏への歳賜を絶ち、辺境に多数の城砦を築かせる。呂惠卿も出兵して宥州などを攻め取る。元符元年冬、夏が平夏城を再侵するが、章楶は伏兵策で夏軍を撃破し、猛将嵬名阿理や監軍妹勒都逋らを捕らえる大勝利を収め、夏軍の主力は壊滅的打撃を受けた。夏主乾順は畏れをなし、母梁氏の死去も重なって遼に仲介を頼み、宋との和議が成立して西方は一時安定した。
吐蕃・青唐方面の情勢
かつて河湟を平定した王韶が非業の最期を遂げた話を挟みつつ、吐蕃鬼章の投降、董氈の養子阿裡骨の帰順、その子轄征による叔父殺害と部族の内紛が語られる。洮西安撫使王贍が青唐攻略を献策し章惇もこれを後押し、邈川・青唐を次々と攻略して轄征を降す。しかし論功行賞への不満から王贍の動きが鈍り、その隙に敵対勢力が新たな首長を擁立するなど、青唐・邈川の平定は表面的な成功に過ぎず、先行きに不安を残す形で終わる。
劉賢妃の立后と鄒浩の諫言
孟皇后廃位後、哲宗は三年ものあいだ皇后を立てずにいたが、劉賢妃が皇子を産んだことを機に、周囲の後押しで劉氏を皇后に立てる運びとなる。右正言鄒浩は、仁宗の郭后廃立の故事を引き、寵妃をそのまま皇后に立てることは天下の疑惑を招くとして強く諫止し、天変地異も凶兆として指摘した。哲宗は一度は思案するが、章惇の強い反発もあって鄒浩を除名・新州へ流罪とする。尚書右丞黄履の弁護も容れられなかった。鄒浩は友人田画の叱咤や母の教え、宗正寺簿王回の献身的な支援に支えられ、節を曲げなかった逸話が語られる。
劉后立后とその後の悲劇
哲宗は文徳殿で劉氏に皇后の冊宝を授け、宮中は数日にわたり祝宴に沸いた。しかし生まれた皇子茂はわずか二か月余りで病死し、劉后は悲嘆に暮れる。さらに哲宗自身も体調を崩し、元符三年正月八日、二十五歳の若さで崩御した。在位中に二度改元、治世は十五年に及んだ。皇嗣がないまま、向太后に諮って次の皇帝を定めることとなった。
評語
夏主乾順が若くして母とともに五十万の大軍を興し宋を侮った様や、俘虜を返しつつ皮肉の書を送った態度に、宋を軽んじる夏の心情がうかがえる。章楶の築城策は夏を撃破し数年の平安をもたらした点で評価できるが、王贍の青唐攻略は事情が異なり、宋にとって得失のない他部族の内紛に軍を出し、僥倖の勝利を得たにすぎず、守り続けることの難しさを見落としていた。劉妃は寵愛によって皇后の座を得たが、皇子は早世し哲宗もほどなく崩御した。陰謀によって僥倖の成功を得た者が長く幸福を享受した例はなく、天下の理に背いて善果を得た者はいない。