宋史演義公主、情を鐘め再婚を志し喜ぶ/孤臣敗死し一炬にて墟と成る(第 六 回 公主鐘情再婚志喜 孤臣敗死一炬成墟)
追尊と杜太后の戒め
宋太祖は即位後、四代の祖先に廟号を追贈し、母杜氏を皇太后に立てた。杜氏は即位の報を聞くと「わが子はもとより大志を抱いていたが、果たして成功した」と語り、朝賀の場でも喜ぶ様子を見せず、「君主であることは難しい。政治を誤れば匹夫にも戻れなくなる」と太祖を戒めた。太祖はこれを謹んで受け入れた。
皇后冊立
太祖はさらに夫人王氏を皇后に立てた。太祖の元配賀氏は一子二女を残し既に病没しており、継室として迎えた王氏(彰徳軍節度使王饒の女、周世宗より瑯琊郡夫人に封ぜられていた)が正式に皇后となった。
燕国長公主と高懐徳の再婚
太祖には二人の妹があり、一人は早世して陳国長公主に追封、もう一人は米福徳に嫁いだのち夫を亡くし寡居していた燕国長公主であった。太祖は寡婦となった妹を憐れみ、同じく妻を亡くした殿前副点検高懐徳(真定の人、周の節度使高行周の子)との再婚を思い立つ。杜太后は当初ためらったが、公主本人の内意を確かめたうえで承諾させ、趙普・竇儀を仲人として高懐徳に打診、懐徳も快諾した。吉日を選んで婚礼が執り行われ、懐徳は駙馬都尉を拝命、盛大な儀式のうえ夫婦となった。
李筠の去就
婚礼直後、詔により高懐徳は李筠討伐に出陣を命じられる。李筠は太原の人で唐・晋・漢・周に仕えた宿将であり、周から昭義軍節度使に任ぜられ潞州に駐屯していた。宋の受禅後、中書令を加えられたが内心不服で、使者を迎えた宴席で周太祖の画像を掲げて涙するなど不満を隠さなかった。北漢主劉鈞が挙兵を誘うと、李筠は趙匡胤が幼主・太后を欺いて簒奪したと非難し挙兵を決意する。長子李守節は無謀を諫めたが容れられず、代わりに北漢からの書状を宋廷へ届けて忠誠を装い内情を探る策を提案、李筠もこれを容れて守節を汴京へ送った。
守節の使いと李筠の挙兵
守節は太祖に北漢の書を献じて信任を得るが、太祖はすでに李筠の逆心を見抜いており、守節を戒めて帰らせ、なお臣節を守るよう李筠に伝えさせた。しかし李筠は聞き入れず、監軍周光遜らを捕えて北漢へ送り、宋への反乱を布告する檄文を発した。麾下の猛将儋珪は澤州を急襲して刺史張福を斬り城を奪う。従事閭丘仲卿は太行山を越えて洛陽方面へ進出する策を進言したが、李筠は自らの武威を恃んでこれを退けた。北漢主劉鈞は自ら援軍を率いて至り李筠を平西王に封じたが、両者は周への旧恩を巡って互いに疑心を抱き、監軍として送られた盧贊とも不和が生じる。北漢の援軍は少なく李筠は後悔しつつも、やむなく南下する。
宋軍の北征
太祖は石守信を統帥、高懐徳を副将として北征を命じ、慕容延釗・王全斌にも東路からの挟撃を命じた。高懐徳は出陣に際し燕国長公主に別れを告げ、公主は涙ながらに無事を祈った。宋軍は長平で李筠軍と対峙し、石守信・高懐徳が李筠を非難して開戦、慕容延釗の加勢もあって李筠軍を撃破、三千余の首級を得た。
大会寨・澤州の攻防と李筠の最期
李筠は大会寨に拠って抵抗、宋軍は数度攻めても落とせなかったが、慕容延釗の計略で誘い出し、伏兵によって撃破した。李筠は盧贊・衛融らと澤州へ逃れるが、王全斌がすでに砦を制圧していた。太祖自ら親征して澤州に至り、慕容延釗・高懐徳が李筠軍と激戦、盧贊を討ち取り、河陽節度使范守図も生け捕りにされた。李筠は衛融と澤州城に逃げ込むが、宋軍の猛攻を受け城中に火が上がり、篭城は絶望的な状況に陥った(李筠の最期は次回に続く)。
評語
著者は、燕国長公主の再婚について、宋史の記載を根拠に建隆元年の事実であると確認しつつ、寡婦の再嫁は本来名教に反するものであり、即位間もない宋祖が礼楽を正すべき時にあえてこれを行ったことを暗に批判し、本回で詳しく描いたのはその戒めのためだとする。また李筠については、唐・晋・漢・周の四朝に仕えながら周のためにだけ命を懸けて挙兵したことの是非を問いつつ、閭丘仲卿の策を用いず北漢を頼みとした判断の誤りが、彼を滅びに至らしめたと評している。