宋史演義李重進、闔家火窟に投ず/宋太祖、杯酒もて兵権を釈く(第 七 回 李重進闔家投火窟 宋太祖杯酒釋兵權)

李筠の最期

澤州城内で火が上がったのは、守将儋珪が宋軍の勢いを見て城を捨てて逃げたことに端を発する。李筠は妾の劉氏に潞州へ逃れるよう勧められたが、部下の離反を恐れて籠城を決意。宋将馬全義が城壁を破ると、李筠は薪に火を放って自焚した。劉氏には身重であることを理由に逃げるよう言い残し、自らは炎の中に身を投じた。宋軍が城に入ると、逃げようとした衛融が王全斌に捕らえられた。太祖は衛融に降伏を勧めたが、衛融は「周に背いたお前に降ることはできぬ」と拒絶し、鉄鞭で打たれてもなお節を曲げなかった。太祖はその気迫に免じて許し、太府卿に取り立てて帰順させた。

潞州の平定と守節の助命

太祖はさらに潞州を攻め、援軍を求めた李守節は北漢主劉鈞にすでに逃げられ孤立、太祖の招降に応じて城を出て降った。太祖は父の逆心と子の忠心を分けて守節を赦し、団練使に任じた。太祖の還京後、李筠の妾劉氏が捜し出され、身ごもっていた男子を無事出産、李氏の血筋は絶えずに済んだ。

李重進の挙兵と滅亡

南唐からの祝賀使が、周室の縁戚である淮南節度使李重進が南唐に援軍を求める密書を届けたことを太祖に知らせる。太祖は激怒し、石守信・王審琦・李処耘・宋偓の四将に討伐を命じた。李重進は郭威の甥で晋・漢・周に仕えた武人であり、太祖の受禅後、青州への移鎮を命じられて不安を強め、李筠と呼応しようと親吏翟守珣を送るが、守珣は逆に太祖に密告した。太祖は守珣を通じて重進の挙兵を先延ばしさせ、潞州平定を先に済ませた。重進は使者陳思誨を抑留し、部将の向美・湛敬の進言で南唐に援助を求めつつ挙兵に踏み切ったが、宋軍の南下に対し派遣した兵は敗れ、太祖自らの親征を知ると絶望し、一族とともに火を放って自焚した。城内の逆党は捕らえられ処刑され、抑留されていた陳思誨も殺害されていたことが判明し、太祖はこれを悼んで手厚く葬った。守珣は重進の遺骨を拾い葬ることを許され、その後太祖に従い帰京した。

揚州平定後の処置

太祖は南唐主李景の使者を労い、恭順の姿勢を示す一方、主君を裏切って平南策を献じようとした南唐の臣杜著・薛良を厳しく処罰し、忠義を示す政治的姿勢をとった。

微行と趙普の諫言

帰京後、太祖はしばしば供奉官の翟守珣らを伴って微行し、守珣が身の危険を諫めても「天命が自分にあるなら害されることはない」と意に介さなかった。趙普邸を訪ねた際にも同様の考えを述べたが、趙普は諸将が必ずしも統率の才を持たず、部下に押されて変事を起こしかねないと説き、太祖に自重を促した。太祖は国内の人心がまだ定まらないための微行であると明かした。

杯酒釈兵権

建隆二年、太祖は殿前都点検の職を廃止し慕容延釗を移鎮させるなど、静かに軍権集中を進めた。趙普は五代の混乱が藩鎮の権力過大にあったと説き、兵権の抑制を進言する。太祖はやがて石守信・王審琦・張令鐸・趙彦徽らを酒宴に招き、皇帝位の重さと、部下に推されて謀反を起こさざるを得なくなる危険を説いて、兵権を手放し安楽な余生を送るよう勧めた。諸将は翌日そろって病を理由に辞任を願い出て、それぞれ節度使として地方に転じ、宿衛の任を解かれた。高懐徳も歸徳節度使となり殿前副都点検を退いた。

その後の兵権整理

数年後、太祖は天雄軍節度使符彦卿を禁軍に召そうとしたが、趙普は「これ以上の権力を与えてはならない」と強く諫め、太祖が「周世宗にどう申し開きするのか」と切り返されて断念した。さらに王彦超・武行徳・郭従義・白重賛・楊廷璋ら旧臣を召したとき、王彦超は自ら引退を願い出て太祖に称賛されたが、武行徳らは自らの功績を誇ったため冷たくあしらわれ、翌日そろって節鎮を解かれた(王彦超のみ留任)。こうして藩鎮の力は次第に削がれ、太祖は安泰を得た。

評語

著者は、李重進が周室の縁戚として本来なら宋の受禅と同時に挙兵すべきであったのに、李筠平定後まで逡巡して機を逸したことを痛烈に批判し、韓通・李筠のような忠臣とは並べられない末路だとする。また趙普が武断政治の弊害を正し、杯酒による兵権回収という穏当な策を成功させたことを評価しつつも、それは太祖個人の智勇と威望あってこそ成し得たことであり、後の宋の子孫が軟弱で異民族に制されるに至った遠因もまたここにあると指摘している。