宋史演義師を遣り南下し荊湘を戡定す/雪を冒し宵に来たり巴蜀征討を商る(第 八 回 遣師南下戡定荊湘 冒雪宵來商征巴蜀)

杜太后の遺言と金匱の誓約

建隆二年、病篤い杜太后は太祖・趙普を枕元に呼び、太祖が帝位を得られたのは周が幼君であったためだと説き、後継は光義、次いで光美、次いで徳昭へと兄弟相伝させ、常に成人の君主を立てるべきだと遺言した。太祖はこれを誓い、趙普は誓書を記して自ら署名し金匱に納めた。まもなく杜太后は崩じた。

辺境防備と将帥の統制

太祖は藩鎮の兵権を回収する一方、趙賛・姚内斌・董遵誨・王彦昇・馮継業・李漢超・馬仁瑀・韓令坤・賀維忠・何継筠・郭進・武守琪・李謙溥・李継勲ら諸将を辺境に配置し、家族を都に留めて手厚く待遇することで忠誠を確保した。関南の李漢超が民女を強奪し借金を返さぬと訴えが出た際、太祖は訴えた民を一旦叱って追い返しつつ、密かに漢超へ返還と清算を命じ、漢超は感激して改めた。環州の董遵誨は、太祖が微賤の頃に自分を侮った過去を悔い、赦されて忠誠を誓い、幽州に取り残された生母を太祖の計らいで取り戻してもらい、以後国境防衛に尽力した。さらに文官による知州事、通判、転運使の設置などにより中央集権化を進め、五代以来の藩鎮の弊を除いた。

荊南・湖南の平定

乾德改元の折、武平節度使周保権(周行逢の子)から救援要請が届いた。行逢は死に際し、衡州刺史張文表の反乱を予見し、子の保権を諸将に託していた。案の定、文表は行逢の死後に潭州を襲い留後廖簡を殺害、朗州へも進撃の構えを見せた。保権は楊師璠を討伐に、荊南節度使高継冲も宋へ援軍を要請した。太祖は慕容延釗・李処耘に南征を命じ、荊南に「仮道」を求めて隙をつく策をとった。荊南では孫光憲が早期の帰順を勧めたが、継冲は叔父保寅を派遣して宋軍を偵察させる間に、李処耘が夜襲同然に江陵へ進軍、継冲はやむなく荊南三州十六県を宋へ献上した。太祖は継冲を厚遇し馬歩都指揮使に任じた。

続いて延釗・処耘は湖南へ進み、湖南の将楊師璠が張文表をすでに討ち取っていたため潭州は労せず陥落。朗州の牙将張従富は徹底抗戦を主張し、丁徳裕の招降にも応じず橋を壊し河を塞いで抵抗した。李処耘は策略で澧江を渡り従富軍を撃破、俘虜の一部を食し見せしめに黥面して放つという苛烈な手段で朗州を恐慌に陥れ、無血で入城した。従富は西山で捕らえられ、保権とその一族も僧寺で捕縛され、湖南は平定された。保権は都に送られ、幼さから太祖に憐れまれて赦され、右千牛衛上将軍に任じられた。

張瓊の死

軍校の史珪・石漢卿が殿前都虞侯張瓊を讒言で誣告し、太祖の詰問に瓊が反発したため、石漢卿が鉄鞭で瓊を打ち投獄した。瓊は無実を訴え悲憤のうちに自ら頭を壁に打ちつけて絶命した。太祖は瓊の家に財産がなかったことを知り悔い、遺族を厚く扶助し石漢卿を叱責した。

趙普の登用と参知政事の設置

乾德二年、范質・王溥・魏仁浦の三相が退き、趙普が同平章事となった。副宰相として参知政事の職が設けられ、薛居正・呂餘慶がこれに任じられた。太祖は趙普を深く信頼し、しばしば夜間にも自ら趙普の私邸を訪ねて国事を相談した。

雪夜の訪問と対外戦略の決定

大雪の夜、太祖は光義とともに趙普邸を不意に訪れ、妻の林氏がもてなす中、酒を酌み交わしながら軍事戦略を語り合った。太祖が太原(北漢)を先に討つべきか尋ねると、趙普は契丹との直接対峙を招くとして反対し、まず南方の諸国を平定してから太原を孤立させる策を進言、太祖もこれに同意した。次いで蜀を最初の攻略目標とすることが決まった。

評語

著者は、荊南・湖南平定にあたり宋が「仮道伐虢」の術策を用いたことを王道にそぐわぬ覇道の手段と批判し、李漢超・董遵誨への懐柔も小恵に過ぎないと評する。また張瓊の死は讒言を信じた太祖の落ち度であり、遺族への厚遇も償いにはならないとする。雪夜の趙普訪問と征伐策の密議についても、国家の大事を朝廷ではなく私邸で決めたことを「鬼鬼祟祟」として、後世が美談と称えることに疑義を呈している。