宋史演義陳橋駅にて策を定め新君を立つ/崇元殿にて禅を受け大位に登る(第 五 回 陳橋驛定策立新君 崇元殿受禪登大位)

世宗の親征と点検の予兆

趙匡胤は病床の周世宗に拝謁し、遼討伐が病のため頓挫していることを慰め、天意に任せて帰還するよう勧めた。世宗はこれを容れ、翌日、瓦橋関を雄州、益津関を霸州と改めてそれぞれ守将を置き、都へ帰還した。道中、世宗は嚢中の文書を検めるうち、以前僧から伝えられた「点検、天子となる」という予言に関わる木片を見出し、驚きながらも再び仕舞い込んだ。

世宗の崩御と幼帝の即位

帰京後、世宗は都点検の張永德を郭威の女婿であることを警戒して免官し、代わって趙匡胤を殿前都点検に任じた。宰相范質らの進言で世宗は子の宗訓(七歳)を梁王に立てて太子とした。まもなく世宗后が没し、その妹が後継の后となる。世宗自身も病が重り、范質らを召して幼君の後見を託し、翰林学士王著を将来宰相に用いるよう遺言したが、退出した范質らは王著が酒に溺れる人物であることを理由に、この遺命を実行しない密談を交わした。その夜、世宗は崩じ、宗訓が即位、符后が皇太后となった。

北征の発令と軍中の噂

匡胤は帰徳軍節度使・殿前都点検を兼ね、慕容延釗を副都点検とし、二人は親密に語らうようになった。年が明け、鎮州・定州から北漢主劉鈞が遼と結んで侵攻するとの急報が入り、符太后は范質の進言により趙匡胤を統帥、慕容延釗を先鋒として北征を命じた。出兵に際し、都では「点検が天子に立てられる」との噂が広まり民が動揺したが、宮中にはそのような動きはなかった。

陳橋駅の異変と黄袍加身

軍が陳橋駅に至り宿営したとき、散指揮使苗訓が「両日並び現れる」という天象を見て、これを点検(匡胤)に天命が移る兆しだと親吏の楚昭輔に語り、噂は軍中に広まった。都指揮の高懐徳らは幼君の下では大敵に当たれないとして匡胤の擁立を諸将に提案、匡胤の弟匡義と趙普に相談したうえで、夜のうちに手はずを整えた。夜明け、諸将は匡胤の寝所に押しかけて万歳を叫び、匡義の説得を受けた匡胤が出てくると、高懐徳らが黄袍を着せかけ、諸将は拝礼して三度万歳を唱えた。匡胤は当初ためらったが、趙普の勧めもあり受け入れ、太后・幼主への礼遇と京師・府庫を侵さぬことを号令したうえで、楚昭輔・潘美を先発させ、軍を都へ返した。

都での動揺と韓通の死

潘美・楚昭輔の急報で都は騒然となり、符太后は范質を詰ったが涙を流すのみで、范質も弁明に窮した。范質は王溥に事の次第を嘆いたが要領を得ず、侍衛軍副都指揮使韓通と行き合う。韓通は禁軍を集めて防戦し諸鎮に勤王を呼びかけるべきと説いたが、范質は間に合わぬとして躊躇するうち、叛軍が入城したとの報に范質・王溥は保身のため退散した。匡胤の先鋒王彦昇は家に逃げ帰ろうとした韓通を追い、これを斬殺してその妻子まで殺害した後、匡胤を出迎えた。

禅譲と宋朝の成立

匡胤は入城後、公署に退いて范質・王溥を招き、涙ながらに世宗の恩に背いた不本意を述べたが、軍校羅彦が剣を抜いて服従を迫ったため、王溥・范質はやむなく拝礼した。匡胤は幼主を堯舜の故事にならい礼遇すると約し、范質らに文武百官を召集させた。夕刻、百官が参集する中、翰林承旨陶穀が用意した禅位の詔書を兵部侍郎竇儀が読み上げ、匡胤は北面して詔を受けたのち崇元殿に登り皇帝に即位、百官の朝賀を受けた。幼主宗訓と符太后は鄭王・周太后と改めて西宮に遷され、国号を宋(火徳、色は赤)、年号を建隆と定めて大赦を行った。韓通には中書令を追贈し手厚く葬った。石守信・高懐徳・張令鐸・王審琦・張光翰・趙彦徽ら佐命の功臣にはそれぞれ節度使の位を与え、慕容延釗を殿前都点検、高懐徳を副都点検兼任とし、弟の匡義は光義と改名して殿前都虞侯、趙普は枢密直学士に任じた。范質・王溥・魏仁甫ら旧臣もそのまま留任させ、こうして趙匡胤は宋朝の太祖となった。後人はこれを詩に詠み、韓通の非業の死を惜しんだ。

評語

著者は、陳橋の兵変と黄袍加身が「宋祖の本意ではなかった」とする史家の説に疑いを呈し、六つの不審点(北漢の侵攻が実際には深入りしなかったこと、点検即位の噂が出兵前から広まっていたこと、匡義・趙普が事前に根回しをしていたこと、黄袍がすぐに用意されていたこと、韓通殺害の首謀者王彦昇が罪に問われなかったこと、即位後すぐに功臣への論功行賞が行われたこと)を挙げ、世宗の在世中は威に憚って動けなかった趙匡胤が、世宗没後の孤児寡婦を欺いて帝位を奪ったに過ぎないと断じている。