宋史演義第四回 紫金山にて唐営尽く覆る/瓦橋関にて遼将降を出す (紫金山唐營盡覆 瓦橋關遼將出降)

水軍を整え寿州を包囲

還都した世宗は水軍の劣勢を補うため戦艦を建造し、南唐との水戦に備える。李重進が半年にわたり寿州を包囲するが、守将・劉仁贍の防戦は固い。南唐は朱元らの援軍を送り紫金山に十余の砦を築いて城内と連携するが、李重進は夜襲でこれを撃退する。

淮水を渡る周の水軍

世宗自ら水軍を率いて淮水を渡ると、南唐の朱元は北方の兵が水戦に長けているのを見て驚嘆し、居並ぶ将のなかでもひときわ威風堂々とした趙匡胤の姿に感心する。

紫金山の唐軍を撃破

匡胤は偽って退却する策で唐将・辺鎬、許文縝の軍をおびき出し、伏兵と挟撃して壊滅させる。朱元の陣も戦わずして降伏し、辺鎬・許文縝は変装して敗走した。李景達・陳覚の援軍も紫金山陥落を知って撤退し、周軍の追撃で二万余を失う。

寿州の陥落

攻防に疲弊した劉仁贍は病に倒れ、部下が代わって降伏の手続きを進める。劉仁贍はまもなく没し、世宗は彼を天平節度使に追封して弔った。

泗州・楚州の平定

匡胤は濠・泗方面の先鋒を務め、水中を突破して泗州を無血開城させ、略奪を禁じて民心を得る。濠州も降伏し、天長・揚州・泰州・海州も次々に帰順する中、楚州のみ張彦卿・鄭昭業が徹底抗戦を続ける。匡胤は夜襲で援軍の陳承詔を撃破し自ら追撃して捕らえ、楚州を陥落させる。張彦卿・鄭昭業は最後まで戦って死し、世宗はその死を悼んで手厚く葬った。

南唐の屈服と弘殷の死

追い詰められた南唐主・李璟は帝号を返上し、江北の地を割譲して和を請う。匡胤は南唐からの内通の誘い(金品を添えた密書)を退け、そのまま世宗に届け出て忠誠を示す。まもなく父・弘殷が病没し、世宗は手厚く追贈する。

対遼親征と瓦橋関の攻略

世宗顕徳六年、北漢と結ぶ遼への親征が行われ、匡胤は水路都部署として出陣する。瀛州・莫州方面では抵抗なく降伏が相次ぎ、益津関の守将・終廷輝も説得に応じて開城する。匡胤はさらに瓦橋関に迫り、守将・姚内斌に降伏を促す。翌日、姚内斌は表を奉じて降伏した。

世宗の発病と匡胤の進言

宴席で幽州への進撃が議論されるが、世宗は不満げに沈黙する。李重進・孫行友にさらなる進軍を命じるが、安陽水を渡る際に世宗自身が発病し、数日臥せる。匡胤は「主上の病が癒えぬまま長く留まれば遼の来襲に対処できない」と考え、自ら世宗の寝所に赴いて還都を進言する。

評語

世宗は五代随一の名君とされるが、領土拡張の功の多くは実際には趙匡胤の働きによるところが大きく、史書の記述にはやや誇張もあるとされる。後に禅譲を受けた際、韓通ら少数を除いてほとんど抵抗がなかったのは、匡胤の平素の威望が人々を服させていたためである。本回で描かれる紫金山の攻略と瓦橋関の降伏は勢いのある筆致で、前の諸回の戦の描写とは趣を変えて読ませる。旧来の小説にありがちな根拠のない作り話は採らず、実証を重んじる姿勢が貫かれている。