出自と気骨
- 周朗は字を義利といい、汝南安成の人。祖父周文は黄門侍郎、父周淳は宋初に貴顕して侍中・太常に至った。兄の周嶠は高祖の第四女宣城徳公主を娶り、その二女は建平王宏・廬江王褘に嫁いだため外戚として顕官にあった。元嘉末、嶠は呉興太守であったが、劉劭が弑逆し隨王誕が会稽で挙義した際、劭は嶠を冠軍将軍に加え、誕からも檄が至って嶠は迷い定まらぬまま府司馬丘珍孫に殺された。朝廷は嶠の本心を明らかにしたので国婚(周家との縁組)は変わらなかった。
- 朗は幼くして風変りなことを好み気骨があり、兄嶠とは志向が異なり嶠に疎まれた。南平王鑠の冠軍行参軍、太子舎人、司徒主簿となったが急な事情で対を待たずに退出し免官された。江夏王義恭の太尉参軍となる。
- 元嘉27年(450年)、義恭が彭城に出鎮して北討の大統を執ることが議論されると朗は職を辞した。義恭出鎮の際、府主簿羊希が朗に書を送り奇策を献じるよう戯れに勧めたところ、朗は長文の返書で「士の進退は各々の器量と時運によるものであり、自分は身の丈に合わぬ栄達を望まない」という趣旨の見解を述べた。この文中で朗は、士の身の処し方には隠棲して精神を養う道、朝廷で直言し功を立てる道、栄達と失意の間で右往左往する道の三通りがあると論じ、自分はいずれも及ばぬとしつつ、自らの閑居の暮らしぶりを描写し、匈奴討伐に功のある者への皮肉と自らの志を交えて綴っている。
普責讜言の上書(大意)
- のち通直郎に復し、世祖即位で建平王宏の中軍録事参軍となる。世祖が百官に率直な意見を広く求めた際、朗は次のような趣旨の長大な上書を行った(原文は詳細を極めるため大意を記す)。
- 政治の道は教化にあり、今は教化が久しく衰えて刑に頼るのみになっている。25家ごとに1人の長、100家ごとに1人の師を置き、男子は13歳から17歳まで経学を、18歳から20歳まで武訓を学ばせ、書記・図律・忠孝仁義の礼と兵法・戦略・弓馬刀槍の技を授けるべきである。5年経学が立てば司徒に、3年武芸が優れれば司馬に推挙し、7年経に明るからず5年勇に至らねば公卿の子孫であっても永く吏に用いぬこと。国学の課程も古の制度を考証し整えるべきである。
- 農桑は民の命・国の根本であるから、罰は金銭でなく穀帛を用いるべきであり、税は資産でなく人頭で計るべきである。桑を植えれば税が増す現行の仕組みでは民が植樹を恐れる弊がある。
- 戦乱・飢饉・重税により民は貧窮し、鰥居する者や子を育てられず生まれた子を捨てる者が絶えない。婚姻適齢の督励・女子の婚期・宮中の女隷の配偶など具体策を提言し、20年で兵の数が数倍になると説く。
- 江南の穣かな地に流民を募って佃作させ、逆に江北の荒廃した地からは民を南へ移すべきである。虜(北魏)に対しては軽騎による攪乱を予測し、備えを固めるべきとする。
- 馬の飼育を奨励し役を免除する制度を設け、兵と馬を十分に養った上で初めて北伐を論ずべきである。将士への恩賞の不公平が軍の士気を損ねている実情を指摘し、待遇の改善を求める。
- 士大夫以下、父母が健在でも兄弟が別に暮らす者が7割、庶民でも父子が別産する者が8割に及ぶ現状を憂え、家族の睦みを厚くする制度を提言する。三年の喪の制度についても、士大夫だけでなく皇室にも及ぼすべきであるとする。
- 宮中・妃主の奢侈が民間の風俗を乱している実情を指摘し、婢僕の数の制限、衣服・器物の規格を定め、身分による差を明確にすべきであるとする。
- 官制は名実が伴わず冗官が多いことを批判し、周制に基づいて整理し、徳の厚い者を尊位に、能の薄い者を賤官に就けるべきとする。地方の州郡の配置も現実に即して改廃すべきである。
- 王侯の子弟は成人前に地方官に就けるべきでなく、才を見て官爵を議すべきとする。
- 人材登用については、隠れた才を見出す仕組みが不十分であるとし、地方の推挙・実地の観察を経て中央で選抜する制度を提言する。毀誉による人物評価の危うさも指摘する。
- 仏教については、戒律の乱れ、僧尼の奢侈や偽装出家などの弊害を厳しく批判し、律を厳しくして経誦・戒行の実に応じて処遇を分けるべきとする。淫祀・鬼道の類も厳禁すべきとする。医術についても、鍼灸・脈診の技が衰え、民が医に頼らず鬼神に頼る弊害を憂え、大医に男女ともに教習させるべきとする。
- 最後に、いつの時代も改革の詔は下されるが、進言が謀臣の意に沿わず貴族の利に反すると迫害される例(西京の方調の誅、東郡の党錮の禍)を引き、自分の意見が容れられるかどうかを陛下の裁断に委ねると結んでいる。
- この上書は帝の意に逆らい、朗は自ら職を辞した。太子中舎人を除かれ廬陵内史に出た。郡には長らく荒れて野獣が出没していたが、母薛氏が狩を見たいと望んだため朗は包囲して火を放ち母に見せたところ、火が郡の役所に燃え移った。朗は自分の俸禄の米で焼けた建物を償い、病と称して官を去ったが、州の司に糾弾され都に呼び戻された。
- 世祖に「州司の弾劾には不当な点が多いが、私が郡にいた間、虎が3人を食い虫鼠が作物を害したことは事実で、この2件については陛下に申し訳ない」と謝罪すると、世祖は色を変えて「州司が不当と言うならそうかもしれぬが、虫や虎の災いはお前ごときの小事に関わることか」と応じた。
- 朗はまもなく母の喪に遭い、孝心厚く哭泣は激しかったが他の作法には従わなかった。大明4年(460年)、有司が「朗は喪中の作法を欠いている」と奏上し、詔は「朗は礼に悖り口先が過ぎるが、些末な罪で刑典を乱すには当たらない。ただ辺郡に鎖して送るように」とした。護送の途中、寧州へ向かう道で殺された。享年36。子の周仁昭は順帝昇明末に南海太守となった。