出自と初期の経歴
- 沈懐文は字を思明といい、呉興武康の人。祖父沈寂は晋の光禄勲、父沈宣は新安太守。懐文は若くして玄理を好み文章を能くし、かつて楚昭王の二妃を詠んだ詩で世に称された。
- 初め州から召され従事となり、西曹・江夏王義恭の司空行参軍を経て司徒参軍事・東閤祭酒に転じた。父の喪に際し新安郡から手厚い餽物が贈られたが、喪の礼を終えると残りをすべて親戚に分け与え自らは何も留めなかった。太祖はこれを聞いて嘉し、婢僕6人を賜った。
- 服喪後、尚書殿中郎となる。隠士の雷次宗が徴されて鍾山に住み、のち廬岳に帰る際、何尚之が送別の宴を催し文人が集まって連句詩を作ったが、懐文の作が最も美しく評判が高かった。一座は公事にかこつけて免官されたが懐文だけは留まった。
- 隨王誕が襄陽に鎮した際、後軍主簿として諮議参軍謝荘とともに辞令を掌り、義成太守を兼ねた。元嘉30年(453年)、誕が広州刺史に転ずる際、懐文を南府記室にしようとして先に通直郎とされたが、懐文は南行を固辞し上(元凶劉劭)を不快にさせた。弟の懐遠が東陽公主の養女王鸚鵡を妾としたが、元凶が巫蠱を行った際に鸚鵡がこれに連座し、懐文はこの縁で治書侍御史から失脚した。
- 元凶弑逆後は中書侍郎となったが、世祖が劭討伐に入った際、懐文に檄文の作成を命じたところ懐文がこれを固辞したため、劭は激怒し筆を投げて「今の艱難の時に事を避けようとするか」と詰った。殷沖の取り成しでかろうじて免れた懐文は、病と称して馬から落ちる真似をして新亭に逃れ、竟陵王誕の衛軍記室参軍・新興太守、さらに誕の驃騎録事参軍・淮南太守となった。当時なお国喪が明けぬ中で誕が内斎の造営を望んだが懐文がこれを諫めて止めさせた。
諫言と世祖の不興
- のち揚州治中従事史に転じた。尚書省と録尚書事の統合を省く議論が起きた際、懐文は上議して「古来、天官(冢宰)は六典を掌り百官を統べる大権を持ち、代々の制度に反しない。八統・元任は省くべきでない」と反対し、この議は通らなかった。
- 別駕従事史に遷り、江夏王義恭が西陽王子尚に代わって揚州を執った際も居職はそのままとされた。熒惑(火星)が南斗を守るという天変があったとき、上は西州の旧館を廃し子尚を東城へ移らせて厭勝しようとしたが、懐文は「天道の変異には徳をもって応ずべきで、西州を空にしても益はない」と諫めたが用いられず、州はついに廃止された。
- 大明2年(458年)尚書吏部郎に遷った。朝議が古制に倣い王畿を置いて揚州を会稽へ移そうとした際も、これは星変を理由としたものであったが、懐文は「周の封畿、漢の司隸はそれぞれ時宜に応じたもので、民心の安んずるところが天も従うところ。古に倣って州を改めれば旧来の民情に背く」と反対したが、また用いられなかった。
- 大明3年(459年)子尚が会稽に移鎮すると撫軍長史・行府州事となった。当時裁判が滞って囚人が長期間繋がれていたが、懐文は着任すると五郡9百36件の獄を審理し、皆その公平さを称えた。侍中に入り寵愛が厚く会稽への転任も予定されたが実現しなかった。
- 竟陵王誕が広陵で反し城が陥落した際、士庶がみな裸にされ顔を鞭打たれた後に処刑され、殺された者の首を石頭の南岸に積んで「髑髏山」と呼んだ。懐文はその非を上奏したが上は聞き入れなかった。
- 揚州を会稽に移した際、上は浙江東の人情が不服従であることを怒り、その俸禄・爵禄を貶めようとし西州の旧人だけは変えないとしたが、懐文は「揚州の移治自体が民情に反しており、一つの州に二つの格を設けるのは大体に反する」と諫めたがまた聞かれなかった。
- 顔竣・周朗は懐文と親しかったが、竣が上意に逆らい誅殺されると朗もまた咎を得た。上は懐文に「竣が私が彼を殺すと知っていたなら、あのようなことはしなかったろう」と言ったが、懐文は黙して答えなかった。
- ある歳末、懐文は謝荘・王景文・顔師伯とともに宮中に召され順番を待っていた際、景文が竣・朗の人物を賞める話をし懐文も相槌を打ったが、師伯がのちにこの話を上に伝え、上はますます懐文を疎んじた。
- 上は諸郡の士族を将吏に充てようとしたが皆逃亡し、軍法を適用して斬るようになったため人々は山湖に逃れて盗賊となった。懐文はこれを諫めた。また宮中の絹・綿の年間調達額が莫大で、民間で絹1匹が2、3千銭、綿1両が3、4百銭にも高騰し貧しい者は妻子を売り自縊する者すら出た。懐文がこの窮状を具さに上奏すると一時減額されたがすぐ元に戻った。
- 子尚をはじめ諸皇子が邸舎を構えて商売の利を貪り天下の患いとなったことも懐文は諫めた。孝建以来、諸弟を抑圧する政策があり、広陵平定後にさらに厳しくしようとした際、懐文は「漢の明帝が子を光武の子と同等に扱わなかったことは前史に美談とされる。陛下はすでに管蔡の誅を明らかにされたのだから、唐叔・衛康叔のように厚遇すべきだ」と諫め、海陵王休茂の誅殺後に議論が再燃した際も太宰江夏王義恭が密かに帝意を汲んで先議を発したが懐文は不可を固持し、その議は止んだ。
- 上が節度なく遊幸するのを、懐文は王景文とたびたび諫めた。ある時松の木の下で嵐に遭い、景文が「今こそ諫めるべきだ」と言い、懐文は「一人だけの言では効かない、皆で諫めるべきだ」と応じ、江智淵も賛同したところ、すぐに召されて雉場に赴くと懐文が「風雨がこのように激しいのは聖躬にふさわしくありません」と言い、景文が「懐文の意見は智淵の言うとおりです」と続けようとしたが、上は弩を構えたまま色をなし「顔竣の真似をするつもりか。何をそんなに人のことを知りたがるのか」と言い、さらに「顔竣めは鞭で顔を打ってやりたかったものだ」と言った。上は宴席で列席者に泥酔を強いたが、懐文は元来酒を飲まず戯れも好まなかったため、上は自分と違う態度を示していると見なした。謝荘はかつて懐文を戒めて「お前はいつも人と違う、それでは長続きしない」と言ったが、懐文は「若い頃からこうだ、一朝に変えることはできない、異を好むのではなく生まれつきの性分だ」と答えた。
- 大明5年(461年)晋安王子勛の征虜長史・広陵太守に出た。翌年、正月の朝賀の儀を終えたのち北に転任させられ、娘の病を理由に暇乞いをして3日の猶予を求めたが去らずにいたため有司に糾弾され免官・禁錮10年となった。免官されたのち邸宅を買い東へ帰ろうとしたところ上は大いに怒り、廷尉に付されて死を賜った。享年54。3子は淡・淵・沖。
- 弟の懐遠は始興王濬の征北長流参軍となり深く親愛されたが、王鸚鵡を妾に迎えたことから世祖に広州へ流された。広州刺史宗慤に命じて南方で殺させようとしたが、たまたま南郡王義宣の反乱が起きると、懐遠は文才を買われて檄文を作らされ、命を受けて始興に赴き始興相沈法系と挙兵について論じたことで、乱平定後に慤の弁護によって赦された。ついに世祖の代には都に帰れなかったが、前廃帝の代に流罪の者が皆帰されることとなり武康令に至った。懐文の著した『南越志』および文集は世に伝わっている。
史論
- 史臣は言う。かつて婁敬は戍卒でありながら車を降りて帝都遷都を説き、馮唐は老いた賤臣でありながら片言で明主を悟らせた。彼らは王公卿士のような貴顕の身でも積年の信望があったわけでもなく、ただ一言が意に適って天子の心を動かしたのみである。これ以後、山野の草莽の人・布衣韋帯の士がこぞって闕に詣で意見書を献じ、漢から魏に至るまでこの気風は衰えなかったが、晋代に至って浮薄な風潮が広まり、人々は独善を懐き仕えることに疎くなった。宋の太祖はこの弊を改め華美を捨てて名教を高めたが、聡明な意見を広く聞き入れる道が十分に開かれていなかったため、賤しい身分の者や卑臣は事が自分の発案でないと知れば従わなかった。昔は開かれていたものが今は塞がれている理由は、徐楽・厳安のような人物が漢代に限って豊富だったわけでも、東方朔・主父偃が宋代に限って欠けていたわけでもなく、ただ用いる者と用いない者の違いによるのである。ただ乞言の詔を掲げ、不諱の令を空しく下すのみで、古を慕う情はあっても文士を優遇する実がなく、士人はそれぞれ自らの才を誇示するにとどまった。周朗の弁舌に富む言葉は多く治世の要を突いていたが、その意は言葉の技巧に走り文がかえって君主の意に逆らう結果となった。文辞の巧みさが災いすることが、これほどまでに至るものであろうか。