出自と初期の経歴
- 顧覬之は字を偉仁といい、呉郡呉県の人。高祖顧謙(字公譲)は晋の平原内史で陸機の姉婿、祖父顧崇は大司農、父顧黄老は司徒左西掾。
- 覬之は初め郡主簿となり、謝晦が荊州にあったとき南蛮功曹、のち晦の衛軍参軍となり、晦に深く信頼された。王弘に招かれ揚州主簿、弘の衛軍参軍、鹽官令、衡陽王義季の右軍主簿、尚書都官郎、護軍司馬を歴任した。
- 大将軍彭城王義康が権を握り殷景仁との対立が表面化した頃、覬之は殷景仁と長く関わることを望まず脚気を理由に自ら辞職した。家に籠り夜な夜な床の上を歩く様子を家人が怪しんだが、その真意は知られなかった。
- のち義康が廃されると、朝廷では義康と関わりがあったことで禍を受けた者が多かったが、覬之は東遷・山陰令に再任された。山陰は3万戸の海内屈指の劇邑で歴代の官長が昼夜休む暇がなかったが、覬之は繁を約に治め県の運営に支障をきたさせず、昼は簾を垂れて門前静かであった。宋代を通じ山陰の治は覬之に及ぶ者がなかったという。
出仕の続きと議論
- のち揚州治中従事史、広陵王誕・廬陵王紹の北中郎左司馬、揚州別駕従事史、尚書吏部郎を歴任。かつて太祖の御前で江左の人物を論じた際、顧栄・袁淑の名が出て「卿ら南人は臆病で反乱など起こせまい」と言われたが、覬之は色を正して「忠義を笑う者こそ恥じるべきだ」と答え、相手(袁淑)が恥じ入ったという。
- 元凶弑逆の際、朝士はみな異動したが覬之だけは職を変えなかった。世祖即位で御史中丞に遷り、孝建元年(454年)義陽王昶の東中郎長史・寧朔将軍・行会稽郡事に出、まもなく右衛将軍・本邑中正に徴された。
- 翌年湘州刺史となり善政を行い治績が高く、大明元年(457年)度支尚書・本州中正、2年吏部尚書に転じ、4年致仕を願ったが許されなかった。
- この年、沛郡相県の唐賜が隣村の朱起の母の宴で酒を飲んで帰った後発病し蠱虫を吐いて死の間際に妻の張氏へ死後腹を割いてみるよう言い遺した。張氏が実際に腹を裂いて確かめたところ五臓が糜爛していたという事件が起きた。郡県は張氏の刳剖を「忍びざるを行った」として処罰しようとし、賜の子の副も止めなかった罪に問われたが、赦前の事件で法に明確な適用条項がなかった(民が官長を傷つける、妻が夫を傷つける、子が父母を捨てるなどの科条には該当しない)ため議論となった。三公郎劉思の意見は、妻の悲しみや子の孝心を汲んで寛大に扱うべきというものであったが、覬之は「路傍の死体を動かすことすら不道とされる。まして妻子が忍んで凡人の行わぬことを行った以上、小さな情に流されず大理をもって断ずべきだ」と論じ、副を不孝、張氏を不道とすべしとした。詔はこの覬之の議に従い、覬之は左軍将軍を加えられ呉郡太守に出た。
- 大明8年(464年)再び吏部尚書・給事中を加えられたが未拝のまま会稽太守にとの話もあり実現せず、再び呉郡太守となった。幸臣戴法興が権勢並ぶ者なき時にも覬之は媚びず、左光禄大夫蔡興宗は覬之と親しかったがその節義の峻烈さを危ぶんだ。覬之は「辛毗が『孫・劉のごとき者たちは私を三公にさせぬだけだ』と言ったという故事のようなものだ」と答えた。世祖崩御後、法興は覬之を光禄大夫・金章紫綬に取り立てた。
- 太宗泰始初め、四方が同時に反したとき覬之の家は尋陽にあり、尋陽王子房に爵位を勧められたが覬之は「礼では60歳を過ぎれば従軍せぬもの、まして齢80に近く残る命わずか、家門を守るのみ」と受けなかった。孔覬らはこれを翻意させられなかった。天下が叛逆する中、覬之だけは清廉を保ち関与しなかったため、太宗は大いに嘉した。
- 東土平定後、左将軍・呉郡太守・散騎常侍を加えられ、泰始2年(466年)再び湘州刺史となり常侍・将軍はもとのまま。泰始3年(467年)76歳で没し、鎮軍将軍・常侍・刺史を追贈され、諡は簡子といった。
家門と定命論
- 覬之の家門は睦まじく州郷に重んじられた。五子は約・緝・綽・鎮・緄。三男の綽は私財が非常に豊かで郷里の士庶の多くが借財を負っていたが、覬之は何度禁じても止められなかった。のち呉郡太守になった際、覬之は綽に「もう二度と貸すことは許さぬが、既にある貸借だけは私が郡にいる間に片付けよう。券書は皆どこにあるのか」と持ちかけ、綽が大喜びで文券をすべて出させたところ、覬之はそれを全て焼き捨て「三郎(綽)への借りは皆返さなくてよい」と近隣に触れ回った。綽は嘆いたが取り返しがつかなかった。
- 覬之は常々「人の命運は定まっており智力の及ぶところではない。恭しく己を守り道に従い、天に任せて運に従うべきなのに、愚かな者はこれを悟らず妄りに僥倖を求め、得失に関わらず徒に雅道を損なう」と説き、その考えを弟の子である顧愿に「定命論」として著させた。
- 「定命論」は孔子・左丘明・卜商・孟子ら先賢の言葉を引きつつ、人の生まれつきの気質・運命は万古の昔に定まっており、占い・巫術のように未来を予見する術すら吉凶を変えることはできない、と論じる。善悪の理と禍福の験は必ずしも一致せず、通人君子は俗に惑わされず心を平静に保ち、無理に幸福を求めることをしない、という趣旨を長文の問答体で展開する。中では「教義の道もまた運命によって授かるものであり、寵辱栄枯はこれによって生じる」とし、「命は教えによって全うされ、運は教化によって立つ」として、命と教えは矛盾せず両立するという結論に至る。さらに君臣・師弟・夫婦の関係も天数によって定まり、その情誼への尽力もまた運命の現れであると論じる。
- 顧愿は字を子恭といい、父は顧淵之で散騎侍郎。学問を好み文才があり、大明中に秀才に挙げられ対策で称され、著作佐郎・太子舎人となったが早逝した。
史論
- 史臣は言う。孝建の初め、江南で乱が起こり淮済一帯は連なって難儀し江服は勢い盛んであったが、朱脩之は漢南で節を著し、劉秀之は万里の彼方まで鋭を推し進め、ともに誠を尽くして艱難に当たった。しかし帝が思いを致した結果、峴を越えての戦いは独り克つ功があったのに対し、硖を出た師は舟一艘とて還らず、時を同じくしても功績には差があった。終わりの評定では功の等差が大きく懸隔したが、それは義が藩朝に結ばれたことに由来し、恩に厚薄があったのである。旧臣を忘れぬとはいえ、前訓に言う「名声ばかり高くて実が伴わぬ」の類は取るべきでない。