宋書卷七十九 列傳第三十九 武昌王渾

武昌王渾

武昌王渾、字は休淵、文帝の第十子。元嘉二十四年(447年)九歳で汝陰王・食邑二千戸、後軍将軍・散騎常侍。虜の南侵で汝陰郡が破られたため武昌王に改封。幼くして凶暴で、石頭で怨みを持った側近に刀で斬りつけられたことがある。元凶弑立後は中書令となり、太祖の山陵の夜、裸身で散騎省に赴き通直郎周朗を弓で射て笑いものにするなど乱行があった。世祖即位後、征虜将軍・南彭城東海二郡太守として京口に出鎮。孝建元年(454年)使持節監雍梁南北秦四州荆州之竟陵随二郡諸軍事・寧蛮校尉・雍州刺史。鎮にて左右と檄文を作り自ら楚王と号し年号を永光元年と定め百官を備えて戯れたが、長史王翼之がその手跡を得て世祖に上奏、庶人に落とされ属籍を絶たれ始安郡へ流された。員外散騎侍郎戴明宝が「宗室の重責を担いながらこの所業は不忠不義」と詰問し、上の温情ある言葉にもかかわらず自殺を命じられた。時に十七歳、襄陽に葬られた。大明四年(460年)母江太妃の墓へ改葬を許され、太宗即位後に武昌県侯を追封された。王翼之、字は季弼、琅邪臨沂の人、晋の黄門侍郎王徽之の孫。官は御史中丞・会稽太守・広州刺史に至り諡は粛子。