宋書卷七十八 列傳第三十八 劉延孫
出自と世祖への忠勤
劉延孫、彭城呂の人、雍州刺史劉道産の子。徐州主簿から秀才に挙げられ、彭城王義康の司徒行参軍・尚書都官郎・銭唐令を歴任。世祖の撫軍広陵王誕の北中郎中兵参軍・南清河太守。世祖が徐州の際は治中従事史。虜が懸瓠を囲んで掠民を汝陽に送った折、太祖の命による襲撃の元帥に延孫が挙げられたが固辞し、代わって挙げられた劉泰之が出征したため太祖が激怒し延孫は免官となった。世祖の鎮軍北中郎中兵参軍・南中郎諮議参軍・領録事を経て、世祖伐逆の際は府の上佐欠員のため長史・尋陽太守・行留府事となった。世祖即位後、侍中・領前軍将軍。詔により延孫は東昌県侯、顔竣は建城県侯に封ぜられ食邑各二千戸。同年、侍中のまま衛尉に改め、孝建元年(454年)丹陽尹に遷る。臧質の乱では東土を憂えた上により冠軍将軍・呉興太守として出鎮。事平後、尚書右僕射・領徐州大中正、江陵に派遣され賞罰の裁定に当たる。三年、南兗州刺史・散騎常侍を加えられ、のち使持節監雍梁南北秦四州郢州之竟陵随二郡諸軍事・鎮軍将軍・寧蛮校尉・雍州刺史とされたが病のため赴任せず侍中・護軍・徐州大中正のまま留まった。大明元年(457年)金紫光禄大夫・領太子詹事、のち鎮軍将軍・南徐州刺史。
南徐州と京口の重み
高祖の遺詔で京口は要地ゆえ宗室近戚以外は治めさせぬ定めがあったが、延孫は帝室と同じ彭城の出自ながら呂県に属する別系統で、帝室(綏輿里)・左将軍劉懐粛(安上里)・豫州刺史劉懐武(叢亭里)とあわせ四劉あるものの元来昭穆の序はなかった。しかし当時、司空竟陵王誕が徐州にあり上は誕が京口に居ることを警戒し広陵へ移し、腹心を京口に置いて誕を牽制する必要から延孫を南徐州刺史とし、あわせて宗族として諸王と序を等しくさせた。三年(459年)、南兗州刺史竟陵王誕が召還に応じなかった際、延孫は中兵参軍杜幼文に討伐を命じたが誕はすでに城を閉じ自守しており、誕が遣わした劉公泰の勧誘を延孫は公泰を斬り首を京邑に送ることで拒んだ。幼文はさらに沈慶之の節度を受け江を渡った。この功で車騎将軍・散騎常侍・鼓吹一部を加えられた。五年(461年)、詔により京口の防衛はもう不要として延孫は召還され侍中・尚書左僕射・領護軍将軍となったが、病のため拝命の儀に堪えられず船で入朝、翌年荆州刺史(朱脩之の後任)に擬せられたが赴任前に五十二歳で卒した。
上はこれを深く惜しみ、詔により司徒を追贈し班剣二十人を給し、諡は忠穆(のち文穆と改)とされた。詔にはさらに「延孫は身を持すること質素・家は貧しく、葬送の資も乏しいであろう」として銭三十万・米千斛を賜った。子の質が嗣いだが太宗泰始中に罪により国は除かれた。延孫の弟延熙は義興太守で、孔覬伝に見える。
史論
劉延孫が世祖に款を通じたのは早く、その振る舞いは顔延之・袁淑らに劣らぬものであった。しかし風格・力量は等級を語るまでもないほどのもので、それでいて隆盛な名声と寵愛を必ず選んで授けられたのはなぜか。まことに国運が開けたばかりで宿痾(京口の宗室占有の制約)を打破する必要があったからである。宿恩が内に積もりながらも私情を外に慎むことで、侮りは近しさから生じ疎遠は必ず相思い、狎れは必ず相厭う――狎れと思慕が異なれば栄誉と礼遇も自ずと隔たるもの。延孫が一世の宗臣となり得たのはこの理による。孔子は「君に仕えて諫言が頻繁であれば疏んじられる」と説いたが、まことにその通りであろう。