宋書卷七十七 列傳第三十七 顔師伯

出自と世祖への近侍

顔師伯、字は長淵、琅邪臨沂の人。東揚州刺史顔竣の族兄。父の顔邵は剛正で謝晦に知られ、晦が領軍のとき司馬となり廃立の謀議に加わった。晦が荆州へ移ると諮議参軍・領録事として軍府の実務を委ねられたが、晦の禍を予見して竟陵太守を求め、赴任前に晦討伐が起こり晦と共に挙兵しようとするも邵は服毒して死んだ。師伯は幼くして父を失い貧しく育つも書伝に広く通じ音楽に明るく、劉道産の雍州で輔国行参軍となった。弟師仲の妻は臧質の娘。質が徐州刺史となると師伯を主簿に迎え、以後衡陽王義季・興安侯義賔の代を経て、世祖の代には輔国安北行参軍・徐州主簿として大いに寵遇された。世祖鎮尋陽の際には主簿として仕え、元凶討伐に転じ主簿となる。世祖践祚後は黄門侍郎、随王誕の驃騎長史・南郡太守、御史中丞を歴任。

北討の功

臧質の乱の際は寧遠将軍・東陽太守として東道の防備に当たり、事平後、黄門侍郎・領歩兵校尉、前軍将軍、御史中丞を経て侍中となる。大明元年(457年)の詔により、元凶討伐に功のあった散騎常侍太子右率龎秀之、侍中祭酒師伯、侍中領射声校尉袁愍孫、豫章太守王謙之、太子前中庶子領右衛率張淹らに功封が与えられ、師伯は平都県子・食邑五百戸に封ぜられた。右衛将軍に遷り、母の喪で去職ののち二年(458年)持節督青冀二州徐州之東安東莞兗州之済北三郡諸軍事・輔国将軍・青冀二州刺史として復職。この年、索虜拓跋濬が偽散騎常侍鎮西将軍清水公拾賁勅文らを遣わし清口を侵すと、戍主傅乾愛らが撃破。世祖は龎孟虯・殷孝祖らを増援に遣わし師伯の節度を受けさせ、以後一月のうちに沙溝・済岸・清口周辺で虜の窟瓌公・河南公らを幾度も撃破し名王らを斬るなど大戦果を挙げた。上はこれを大いに嘉し慰労の使者を遣わした。この北討の功により征虜将軍に進み、三年(459年)竟陵王誕の反乱には長史嵇𤣥敬を援軍に遣わした。

専権と処刑

四年(460年)、侍中・領右軍将軍に召され、上の親幸は他に並ぶ者なく、吏部尚書・右軍将軍のまま、上が権柄を人に委ねることを嫌い自ら庶務を親裁したため歴代の選官が文書を奉行するのみだったのに対し、師伯は専断して奏上は通らぬものがなかった。侍中・領右衛将軍を経て七年(463年)尚書右僕射。二選(吏部の二分割人事)に際し師伯の子が絡む人事不正が発覚し、謝荘・王曇生が免官、令史潘道栖・褚道恵が棄市、顔禕之ら六人が鞭杖百に処されるも、師伯自身は太子中庶子を領し処罰は軽く済んだ。世祖崩御に際し遺詔で幼主輔弼と尚書中の事を専任され、廃帝即位後も衛尉を領し権勢は久しく続いた。天下の人が師伯の門に群がり、爵位を得る者は皆分に過ぎ、賄賂により財を蓄え、伎妾・声楽・園池・邸宅の贅を極め、驕奢は世に憎まれた。尚書右僕射・領丹陽尹に遷ったが、廃帝が親政を望み師伯を左僕射・散騎常侍に転じ、吏部尚書王景文を右僕射として京尹の権を奪い臺任も分割すると、師伯は初めて危惧を抱いた。まもなく太宰江夏王義恭・柳元景と共に誅殺された。時に四十七歳。六人の子は皆幼くして共に殺された。弟師仲は中書郎・晋陵太守、師叔は司徒主簿・南康相であった。太宗即位後、詔により罪状に矜みを加え、後継者を立てることが許され、諡は荒子とされた。子の師仲の子幹が継封したが、斉の受禅により国は除かれた。